志魯・布里の乱
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志魯・布里の乱(しろ・ふりのらん)は、1453年に琉球王国第一尚氏王統・第5代尚金福王の死後、王位をめぐって王世子・志魯と王弟・布里が起こした争い[1]。
この乱で当時の首里城は焼失し、志魯は死に、布里は首里を追われた[1]。城が焼失した痕跡は正殿跡の発掘調査からも確認されている。
乱後、王位は尚忠王・尚金福王・布里らの弟にあたる尚泰久が継ぐこととなった[1]。
これらの経緯は、中国の史書である『明実録』にも記述が見られる(乱後の翌年2月に琉球使者が城が焼失した経緯を説明している)。
乱後3年には首里城も再建され、朝鮮の漂流民がこれを目撃し、報告したものが『李朝実録』に記録されている。
脚注
[編集]- ^ a b c 志魯・布里の乱 (しろ・ふりのらん) - 『琉球新報』
参考文献
[編集]- 大石直正 高良倉吉 高橋公明 『日本の歴史14 周縁から見た中世日本』 講談社 2001年 ISBN 4-06-268914-6 p.171.