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高宗 (宋)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
徽宗文集序から転送)
高宗 趙構
南宋
初代皇帝
王朝 南宋
在位期間 建炎元年5月1日 - 紹興32年6月11日[1]
1127年6月12日 - 1162年7月24日
都城 南京建康臨安
姓・諱 趙構
徳基
諡号 受命中興全功至徳聖神武文昭仁憲孝皇帝
廟号 高宗
生年 大観元年5月20日
1107年6月12日
没年 淳熙14年10月8日
1187年11月9日
徽宗
韋賢妃
后妃 憲節皇后邢氏
憲聖慈烈皇后呉氏
陵墓 永思陵
年号 建炎 : 1127年 - 1130年
紹興 : 1131年 - 1162年
養子 : 趙眘(孝宗)

高宗(こうそう)は、南宋の初代皇帝(在位:1127年6月12日 - 1162年7月24日)。北宋の第8代皇帝であった徽宗の九男。太宗の血統では最後の皇帝となった。

人物

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北宋時代には康王に冊封され、靖康元年(1126年)には大元帥に任じられている。

靖康2年(1127年)、軍の侵攻により、父の徽宗と長兄の欽宗、そして生母の韋賢妃[2]・正妻の邢氏(後の憲節皇后、金に抑留されたまま皇后に立てた)らが金軍により北方に連れ去られる靖康の変が発生した際に、南京(応天府、現在の河南省商丘市)へ逃れた。その地で、哲宗の皇后であった元祐皇后(廃立されており、当時たまたま実家にいたため、金に捕らえられず無事であった)を利用し、その指名を得て皇帝に即位した。これが南宋の起源である。

しかしこの即位の手続きについては、宮廷の一部からその正当性に疑問があるとされ、即位した帝位は宮廷で確立したものではなかった。このため兄の欽宗を金側が送還させようと申し出て来た時も、高宗は帝位が動揺すると考え、帰国を許可しなかったとされる。その一方、正妻の邢氏に関しては積極的であったが、願いは成就しなかった。金人は高宗に屈辱を与えるため、母の韋賢妃・妻の邢氏[3]および娘の趙仏佑・趙神佑の4人[4]洗衣院と呼ばれる金の皇族・官吏用の妓楼に送っており(他にも多くの趙氏の女性が同様の辱めを受けた)、邢氏は滿洲五国城で病没した(韋氏と邢氏は一旦は後宮に送られた後、洗衣院に下げられた[5])。その後、呉氏(憲聖慈烈皇后)を皇后に立てた。

即位の正統性に問題があった高宗の地位は安定せず、国内では即位反対派による反乱、国外では金の南下など、内憂外患の時代であった。そのため国内各地の移動が続き、紹興2年(1132年)にようやく首都を臨安に定め、南宋の統治体制を確立するに至った。

高宗は金軍の南下を恐れ、和平派に傾いていた。紹興8年(1138年)、和平派を代表する秦檜を宰相に任用し、同年には金と和約を締結することになった。このため、主戦派である岳飛と秦檜の対立を生み、紹興11年(1141年)には岳飛が秦檜によって処刑されている。統治後半には金と再度和睦条約を締結し、外敵の侵入を防ぐ一方で、江南の開発が進められた。

皇太子である趙旉が3歳で夭折した。高宗には他に男子がなく、兄弟など近縁の男子はことごとく金に連行されていたため、紹興32年(1162年)に太祖の系統の族子である趙眘(孝宗)を立太子、同年に譲位して自らは太上皇(上皇)となった。高宗はその後、20年余りも余命を保ち、淳熙14年(1187年)に81歳で崩御した。

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高宗は能書家で、多くの書を遺している。そのうち『徽宗文集序』は日本の文化庁が保有し、国宝に指定されている。

徽宗文集序

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「徽宗文集序」(きそう ぶんしゅうのじょ)は、紹興24年(1154年)の書で、先帝・徽宗の文集百巻に、高宗自ら小楷で書した序文である。前半部分が失われ、現在32行が存在している。書風は温雅で気品が高く、極めて自然に悠々と筆を運んでいる。高宗は黄庭堅、次に米芾に学び、最後に二王を学んだといわれるが、この序文は黄庭堅や米芾の影響を脱し、唐人以上の激跡と評される高宗の代表作である。紙本・縦27.4cm、全長137cm[6][7][8][9]

宗室

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后妃

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  • 正室:邢秉懿(憲節皇后) - 康王時代の正室。皇后に遙封(不在のまま冊立すること)された
  • 継室:呉皇后(憲聖慈烈皇后
  • 側室:潘賢妃
    • 長男:趙旉(元懿太子) - 3歳で夭逝。
  • 側室:郡君 田春羅、郡君 姜酔媚 - みな康王時代の側室。金に連行された
  • ほか多数
    • 張賢妃劉貴妃、劉婉儀、張貴妃
    • 才人呉玉奴(呉皇后の一族)、馮美人、韓才人、李才人、王才人[10]
    • 淑国夫人王氏、康国夫人蕭氏、和国夫人王氏、嘉国夫人朱氏、成国夫人呉氏、潤国夫人張従義、恵国夫人孫氏、直筆張氏、典字孫氏、直筆劉氏、尚服朱氏[11]
    • 新興郡夫人陳氏、高平郡夫人張氏、和義郡夫人黄氏、安定郡夫人李氏、順政郡夫人王氏、高平郡夫人孫氏、縉雲郡夫人蔡氏、南平郡夫人張氏、斉安郡夫人張氏、信安郡夫人趙氏、咸寧郡夫人藺氏、平楽郡夫人王氏、咸寧郡夫人郭氏、富平郡夫人孫氏
    • 司記劉氏、典籍馮氏、紅霞帔呉氏
    • 紅霞帔馬二娘(など9人)、紫霞帔劉安喜(など20人)、聴宣劉宝奴(など20人)[12]
  • 養子
  • 生母不詳の子女
    • 趙仏佑(康大宗姫):北遷時4歳、後に洗衣院に入れられた。
    • 趙神佑(康二宗姫):北遷時4歳、後に洗衣院に入れられた。
    • 康三宗姫:北遷時3歳、その途中夭逝。
    • 康四宗姫:北遷時2歳、その途中夭逝。
    • 康五宗姫:北遷時2歳、その途中夭逝。

康王時代に5人の娘がおり、いずれも靖康の変に際し北遷された。

備考

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光宗の時代、高宗の娘を自称する一人の老婦が南宋に突然現われた。連行途中で脱落し、鄧元亮に養われて江西で成長したという。光宗は彼女の身分を認め、郡主の位を授けた。本物であるとすれば、康三宗姫・康四宗姫・康五宗姫の3人のいずれかである。

年号

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  1. 建炎1127年 - 1130年
  2. 紹興1131年 - 1162年

脚注

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  1. ^ 宋史』巻32, 高宗紀九 紹興三十二年六月丙子条による。
  2. ^ 金の宗室の完顔宗賢に妻にされて、ふたりの男子(高宗の異父弟)を産んだ。
  3. ^ 『靖康稗史箋證』巻5:賜宋妃趙韋氏、鄆王妃朱鳳英、康王妃邢秉懿、姜酔媚,帝姫趙嬛嬛、王女粛大姫、粛四姫、康二姫,宮嬪朱淑媛、田芸芳、許春雲、周男児、何紅梅、方芳香、葉壽星、華正儀、呂吉祥、駱蝶児浣衣院居住者。
  4. ^ 『靖康稗史箋證』巻3:康一即仏佑、康二即神佑均二起北行、入洗衣院
  5. ^ 『靖康稗史箋證』巻3:韋賢妃、随入斎宮
  6. ^ 木村 P.175
  7. ^ 飯島 P.233
  8. ^ 中西 P.164
  9. ^ 西林 P.100
  10. ^ みな追い出され、実家へ返された。
  11. ^ みな高宗の即位後数年間、流亡中の側室。多くは死去あるいは消息不明となった。
  12. ^ みな高宗の崩御後、実家へ返された。

出典・参考文献

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