御側御用取次
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御側御用取次(おそばごようとりつぎ)は、江戸幕府の役職のひとつで、将軍近侍職にあたる。
概要
[編集]御側御用取次は、徳川吉宗が将軍に就任した時に紀州藩年寄小笠原胤次、御用役有馬氏倫、同加納久通の3名の紀州藩士が江戸幕府の側衆に採用され、うち有馬、加納の両名が申次役に任じられたことに始まる[1][2]。
定員は側衆から特に親任されたもの3名といわれるが[3][2]、実績から言えば1~5名であり、2名または3名の在職であることが多かった。側衆が宿直勤務をするのに対して御側御用取次は日勤であり江戸城中奥の談事部屋を詰め所とした[4]。
職務は将軍の居所である中奥の総裁、将軍と老中以下の諸役人との取次役、将軍の政策・人事両面の相談役、将軍の情報源である目安箱の取り扱いや御庭番の管理などである[3]。通常の側衆が決定事項などの事務処理をするのに対し、御側御用取次は未決事項の立案・審議に参画し、時には将軍に相談無しに老中への指示を出す場合もあった。
若年から将軍の側近として行動を共にしてきた者が将軍専制のために御側御用取次に信任されるという性格がある。家禄が2千石以上の中・下級幕臣として就任するが、平の側衆と比較して側近としての信任の厚さから加増されるケースが多く、就任46名中の2割にあたる9名が万石以上の大名になり、そのうち6名が若年寄、3名が側用人、2名が老中に昇進している。
御側御用取次一覧
[編集]- 小笠原胤次(1716年(正徳6年) - 1717年(享保2年)、在11か月)
- 有馬氏倫(1716年(正徳6年) - 1735年(享保20年)、在19年7か月)
- 加納久通(1716年(正徳6年) - 1745年(延享2年)、在29年4か月)
- 小笠原政登(1736年(元文元年) - 1745年(延享2年)、在9年6か月)
- 藪忠通(1745年(延享2年) - 1747年(延享4年)、在2年)
- 大岡忠光(1746年(延享3年) - 1760年(宝暦4年)、在7年5か月)
- 高井信房(1746年(延享3年) - 1761年(宝暦5年)、在8年11か月)
- 田沼意次(1751年(寛延4年) - 1767年(明和4年)、在16年)
- 稲葉正明(1761年(宝暦5年) - 1766年(宝暦10年)、在4年4か月)
- 松平康郷(1766年(宝暦10年) - 1771年(明和8年)、在11年7か月)
- 水野忠友(1766年(宝暦10年) - 1768年(明和5年)、在6年6か月)
- 佐野茂承(1767年(宝暦11年) - 1769年(明和2年)、在4年4か月)
- (再任)稲葉正明(1768年(明和5年) - 1786年(天明6年)、在17年10か月)
- 白須政賢(1769年(明和6年) - 1773年(安永2年)、在3年9か月)
- 横田準松(1773年(安永2年) - 1787年(天明7年)、在13年11か月)
- 小笠原信喜(1769年(安永8年) - 1781年(天明元年)、在12年1か月)
- 本郷泰行(1782年(天明2年) - 1787年(天明7年)、在2年1か月)
- (再任)小笠原信喜(1786年(天明6年) - 1791年(寛政3年)、在5年1か月)
- 田沼意致(1786年(天明6年) - 1787年(天明7年)、在8か月)
- 加納久周(1787年(天明7年) - 1797年(寛政9年)、在10年)
- 平岡頼長(1791年(寛政3年) - 1804年(文化13年)、在25年6か月)
- 高井清寅(1795年(寛政7年) - 1817年(文化14年)、在22年3か月)
- 林忠英(1804年(文化元年) - 1825年(文政8年)、在20年5か月)
- 土岐朝旨(1817年(文化14年) - 1838年(天保9年)、在21年)
- 水野忠篤(1821年(文政4年) - 1841年(天保12年)、在19年11か月)
- 白須政徳(1825年(文政8年) - 1837年(天保8年)、在11年11か月)
- 松平正名(1837年(天保8年) - 1845年(弘化2年)、在8年9か月)
- 本郷泰固(1837年(天保8年) - 1857年(安政4年)、在20年5か月)
- (再任)白須政徳(1838年(天保9年) - 1843年(天保14年)、在5年4か月)
- 新見正路(1841年(天保12年) - 1843年(天保14年)、在2年6か月)
- 杉浦正義(1841年(天保12年) - 1841年(天保12年)、在6か月)
- 岡野知英(1843年(天保14年) - 1847年(弘化4年)、在3年6か月)
- 竹本正懋(1845年(弘化2年) - 1855年(安政2年)、在9年4か月)
- 平岡道弘(1849年(嘉永2年) - 1862年(文久2年)、在12年9か月)
- 夏目信明(1853年(嘉永6年) - 1859年(安政6年)、在5年11か月)
- 平岡頼啓(1857年(安政4年) - 1858年(安政5年)、在5か月)
- 蜷川親宝(1857年(安政4年) - 1862年(文久2年)、在5年2か月)
- 石河政平(1858年(安政5年) - 1858年(安政5年)、在3か月)
- 坪内保之(1858年(安政5年) - 1864年(元治元年)、在5年8か月)
- 薬師寺元真(1859年(安政6年) - 1860年(万延元年)、在5か月)
- 久貝正典(1860年(万延元年) - 1862年(文久2年)、在2年3か月)
- 村松武義(1862年(文久2年) - 1863年(文久3年)、在1年6か月)
- 大久保忠寛(1862年(文久2年) - 1862年(文久2年)、在4か月)
- 跡部良弼(1863年(文久3年) - 1864年(元治元年)、在1年月)
- 土岐頼昌(1863年(文久3年) - 1864年(元治元年)、在1年月)
- 竹本正明(1864年(元治元年) - 1865年(慶応元年)、在1年4か月)
- (再任)坪内正明(1864年(元治元年) - 1868年(慶応4年)、在3年7か月)
- (再任)村松武義(1865年(元治2年) - 1866年(慶応2年)、在1年7か月)
- 朝倉俊徳(1865年(慶応元年) - 1866年(慶応2年)、在1年1か月)
- 室賀正容(1866年(慶応2年) - 1868年(慶応4年)、在1年8か月)
- 赤松範忠(1866年(慶応2年) - 1868年(慶応4年)、在1年5か月)
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 松平太郎「第四章 將軍及其近侍 / 第二節 御側及御側用人」『江戸時代制度の研究. 上巻』、武家制度研究会、1919年、353-354頁、NDLJP:980847。
- 深井雅海「第3編 将軍専制権力機構の確立 - 江戸幕府御側御用取次の基礎的研究 -」『徳川将軍政治権力の研究』、吉川弘文館、may 1991。ISBN 9784642033046。
- 深井雅海「江戸幕府御側御用取次の基礎的研究」『国史学』第120号、国史学会、1983年5月、57-86頁、ISSN 03869156、NAID 40001320367。