徐之範
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徐 之範(じょ しはん、天監6年(507年)- 開皇4年4月26日(584年6月10日))は、中国の南北朝時代の医師・官僚。字は孝規。本貫は東莞郡姑幕県。
経歴
[編集]南朝斉の蘭陵郡太守の徐雄(徐文伯の子)の子として生まれた。はじめ南朝梁の南康嗣王蕭会理の下で府参軍事をつとめた。劉孝勝が武陵王蕭紀の下で長史となると、之範は外兵参軍として召し出された。ほどなく録事参軍に転じた。劉孝勝兄弟が蕭紀に従って蜀に入ると、之範もこれに従った。広漢郡太守をつとめ、持節・梁州刺史に転じ、郫県開国侯に封じられた。
兄の徐之才を頼って北斉に入った。天保9年(558年)、寧朔将軍・尚薬典御に任じられた。河清2年(563年)、尚薬典御のまま散騎侍郎に転じた。天統2年(566年)、輔国将軍・諫議大夫に転じた。天統3年(567年)、通直散騎常侍の位を受けた。天統4年(568年)、翊軍将軍・太中大夫となった。天統5年(569年)、散騎常侍の位を受けた。この年のうちに仮の儀同三司となった。
武平元年(570年)、儀同三司・征西将軍に転じた。武平2年(571年)、開府儀同三司の位を受けた。武平3年(572年)、太常卿に任じられ、西陽王に封じられた。武平4年(573年)、侍中となった。この年、之範は後主の命により蘭陵王高長恭を毒殺した[1]。建徳6年(577年)、北周により使持節・儀同大将軍に任じられた。
開皇4年(584年)4月26日、晋陽県の邸で死去した。享年は78。
妻子
[編集]妻
[編集]- 蘭陵蕭氏
- 扶風馬氏(西陽王妃)
子
[編集]- 徐敏信(済陰郡太守)
- 徐敏行(尚書駕部郎中)
- 徐敏璞(安定県令)
- 徐敏直(給事中)
- 徐敏智(太尉府墨曹参軍)
- 徐敏貞(給事中)
- 徐敏鑑
- 徐敏廉(通直散騎侍郎)
- 徐敏恭(著作佐郎)
- 徐敏寛
- 徐敏恵
- 徐敏通
脚注
[編集]伝記資料
[編集]- 『北斉書』巻33 列伝第25
- 『北史』巻90 列伝第78
- 隋故儀同西陽王徐之範墓銘(徐之範墓誌)