蕭会理
蕭 会理(しょう かいり、天監18年(519年)- 大宝元年10月26日[1](550年11月20日))は、南朝梁の皇族。南康嗣王。字は長才。
経歴
[編集]南康簡王蕭績の子として生まれた。若くして才知にすぐれ、書籍を好んだ。11歳のときに父を失って南康嗣王となったが、特に武帝に可愛がられて、衣服や礼秩は正式な王と変わらなかった。中大通5年(533年)、軽車将軍・湘州刺史に任じられた。後に領石頭戍事をつとめ、侍中に転じた。大同7年(541年)、領軍将軍を兼ねた。ほどなく宣恵将軍・丹陽尹に任じられた。使持節・都督南北兗北徐青冀東徐譙七州諸軍事・平北将軍・南兗州刺史として出向した。太清元年(547年)、北伐により彭城まで進軍したが、東魏軍に敗北し、南兗州に逃げ帰った。
太清2年(548年)、侯景が建康を包囲すると、会理は建康の救援のために軍を発した。北徐州刺史の蕭正表がその兄の蕭正徳に呼応して侯景につき、妾の兄の龔子明を派遣して広陵に進攻させようと図っていたため、会理は前広陵県令の劉瑗を派遣して龔子明を撃破した。蕭正表は狼狽して鍾離に逃げ帰った。
太清3年(549年)、台城が陥落すると、侯景は前臨江郡太守の董紹先を派遣して武帝の手勅を示し、会理を召し出した。会理の部下たちはこれをしりぞけるよう勧めたが、会理は天子の手勅に違背できないとして、城を董紹先に委ねて出立した。会理が建康に入ると、侯景により侍中・司空となり、中書令を兼ねた。会理は侯景の下にあったが、帝権の回復を目指し、西郷侯蕭勧らとともにひそかに同志を集めていた。大宝元年(550年)、祖皓が董紹先を斬り、広陵城に拠って起兵し、会理を内応させようとした。祖皓が敗れると、会理は連座して免官されたが、なおも無官のまま尚書令の職務をつとめた。
10月、侯景が晋熙郡に赴くと、建康が手薄なのに乗じて、柳敬礼や成欽らとともに建康を掌握しようと計画した。その計画は建安侯蕭賁(蕭正徳の弟の蕭正立の子)に察知されて、侯景に伝えられ、会理は弟の祁陽侯蕭通理や柳敬礼・成欽らとともに殺害された。
伝記資料
[編集]脚注
[編集]- ^ 『梁書』巻4, 簡文帝紀 大宝元年十月壬寅条による。