後藤瑞巌
後藤瑞巌 | |
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1879年10月18日 - 1965年3月20日 | |
生地 | 日本・岐阜県大垣市 |
没地 | 日本・京都府京都市 |
宗派 | 臨済宗 |
寺院 | 東海庵、大珠院 |
師 | 釈宗活 |
弟子 | 小田雪窓 |
著作 | 『白隠禅師毒語心経講話』 |
後藤 瑞巌(ごとう ずいがん、1879年10月18日 - 1965年3月20日)は、明治から昭和にかけての臨済宗の僧。岐阜県大垣市生まれ。道号は瑞巌、法名は宗頑。室号は蔭涼軒。俗姓は後藤。臨済宗円覚寺派の釈宗活の法嗣。臨済宗大学学長、妙心寺派管長、大徳寺派管長を歴任。その後は龍安寺山内の大珠院に隠棲[1]。
生涯
[編集]1879年(明治12年)10月18日、岐阜県安八郡南一色村四番戸(現大垣市南一条町803番地2)、父・後藤吉左衛門、母・なおの五男として生まれる。1895年(明治28年)7月28日、岐阜県安八郡大垣町字南寺内145番戸、内藤宗越方(大悲院14世)に移籍し従弟となる。
1900年(明治33年)3月には、東京中学校を卒業し、その後第二高等学校に進学して1903年(明治36年)に東京帝国大学に入学。在学中に、鎌倉・円覚寺の釈宗活に就いて参禅し、得度。そして1906年(明治39年)には東京帝国大学文科大学哲学科を卒業。
翌年の1907年(明治40年)夏、釈宗活に随侍して渡米する。そして布教と宗教研究に励む。帰国後も常に釈宗活の側近に侍して参究し、1914年(大正3年)1月には、釈宗活より遂に印可を受ける。同年の4月には妙心寺派朝鮮布教監督に就任。1929年(昭和4年)8月には、朝鮮京城妙心寺別院住職に就任。
1930年(昭和5年)2月、岐阜県大垣市荒尾町の圓成寺住職に就任する。そして翌年の1931年(昭和6年)12月には、妙心寺派東海庵住職に就任する。
1932年(昭和7年)4月1日には臨済宗大学(後の花園大学)学長に就任。その後、同年4月には妙心寺派管長に就任。しかし翌1933年(昭和8年)の1月には辞任し、同年に大徳寺派管長に推挙される。また、海外布教のため、北米シアトル市の名光庵などに出掛けた。
1951年(昭和26年)には大徳寺派管長を退任して京都龍安寺山内の大珠院に隠棲。そして1965年(昭和40年)3月20日に遷化。世寿87[2]。
法嗣弟子
[編集]その他、茶道裏千家15世鵬雲斎玄室大宗匠(千玄室)の参禅の師であり、名付親でもある。また孫弟子に盛永宗興(1925年 - 1995年、花園大学学長)がいる。
著書
[編集]関連文献
[編集]- 『蔭凉軒後藤瑞巌老師事蹟』 島崎義孝著、ふくろう出版発行、2005年
脚注
[編集]外部リンク
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