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後藤彦三郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

後藤 彦三郎(ごとう ひこさぶろう、前名・寛一郎[1][2][3]1883年明治16年)1月1日[4] - 1938年昭和13年)6月9日[4])は、日本実業家。族籍は鳥取県平民[5][6]

経歴

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島根県人・後藤彦三郎の長男[1][6][7][注 1]1898年家督を相続し、後に前名・寛一郎を改め襲名する[1]1906年専修大学経済科を卒業[1][2][7][8]鉱業を営む[9]。日東格魯謨鉱業常務取締役、同社専務取締役[1]、同社社長などをつとめる[3]

1933年7月に国幣中社美保神社新営費金1千円を寄付したため1934年3月5日に褒状が下賜される[10]

米子飛行場建設の頃、多額の資金を提供する[4]。1938年、自治制発布五十周年記念式が挙行される時、市会の決議により、波文黒手付果実盛一個並彰功録自治史各一部を贈呈され、その功労を表彰される[4]

人物

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敬神の念が深く、社会公共のために財を寄付する[8]。鳥取県在籍[1]、住所は鳥取県米子市灘町一丁目[1][3][4][8]

栄典

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家族・親族

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後藤家

脚注

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注釈

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  1. ^ 『人材・島根 県人名鑑』には「安濃の名家後藤彦三郎の長男」とある[8]

出典

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  1. ^ a b c d e f g h i 『人事興信録 第9版』コ92頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2020年10月3日閲覧。
  2. ^ a b 『大衆人事録 第5版』コ81頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2020年10月3日閲覧。
  3. ^ a b c 『大衆人事録 第12版』鳥取4頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2020年10月3日閲覧。
  4. ^ a b c d e 『米子自治史』928、960頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2020年10月3日閲覧。
  5. ^ a b c d e f 『人事興信録 第6版』こ60 - 61頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2020年10月3日閲覧。
  6. ^ a b c d e f g h i 『人事興信録 第7版』こ70頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2020年10月3日閲覧。
  7. ^ a b c d e 『人事興信録 第8版』コ91頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2020年10月3日閲覧。
  8. ^ a b c d 『人材・島根 県人名鑑』141頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2024年10月4日閲覧。
  9. ^ 『帝国信用録 第31版』鳥取県9頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2021年2月2日閲覧。
  10. ^ 『官報 1934年03月15日』官報 第2159号 419頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2023年1月14日閲覧。
  11. ^ a b 『紺綬褒章名鑑 賞勲局百年資料集 大正8年〜昭和16年』491頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2024年10月4日閲覧。

参考文献

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  • 人事興信所編『人事興信録 第6版』人事興信所、1921年。
  • 人事興信所編『人事興信録 第7版』人事興信所、1925年。
  • 人事興信所編『人事興信録 第8版』人事興信所、1928年。
  • 人事興信所編『人事興信録 第9版』人事興信所、1931年。
  • 帝国秘密探偵社編『大衆人事録 第5版』帝国秘密探偵社ほか、1932年。
  • 大蔵省印刷局編『官報 1934年03月15日』日本マイクロ写真、1934年。
  • 帝国秘密探偵社編『大衆人事録 第12版』帝国秘密探偵社、1937年。
  • 帝国興信所編『帝国信用録 第31版』帝国興信所、1938年。
  • 島洋之助編『人材・島根 県人名鑑』島根文化社、1938年。
  • 米子市編『米子自治史』米子市、1939年。
  • 総理府賞勲局編『紺綬褒章名鑑 賞勲局百年資料集 大正8年〜昭和16年』大蔵省印刷局、1986年。