役藍泉
時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 宝暦元年(1751年) |
死没 | 文化6年9月28日(1809年11月5日) |
改名 | 島田浄観 |
別名 |
通称:右京 字:道甫 号:藍泉、興山 |
墓所 | 周南市営泉原共同墓地(山口県周南市) |
主君 | 毛利就馴→広鎮 |
藩 | 周防徳山藩 |
氏族 | 島田氏 |
父母 | 父:役赤城 |
役 藍泉(えん の らんせん/えき らんせん)は、江戸時代中期の儒学者。徳山藩の藩校である鳴鳳館の第2代教授で、徳山藩学の基礎を築いた人物の一人。本名は島田浄観だが、徳山の修験宗教学院の住職であったことから、宗祖である役小角から「役」の字を取って「役藍泉」、「役観」と称する。孫に島田蕃根がいる。
生涯
[編集]徳山藩の儒学者・国富鳳山や、江戸の芝に塾を開いていた萩藩の儒学者・滝鶴台から古文辞学(徂徠学)を学んだ。また、福岡藩の亀井南冥と親しく交流したことから、藍泉の学問には亀井学の強い影響が見られる。藍泉は博学多才で、平素から「言行」「経済(国を治める道)」「事業(事を成す)」の三綱領をもって自らを戒めていた。
藍泉は詩文に長ずること徳山藩第一と称され、亀井南冥の子である亀井昭陽をはじめとして、諸国から藍泉の名を慕って徳山に学びに来る者が多く、門人からは林正忠、浅見栄三郎、松岡松陵、桜井玉樹、国富彦恭、町田淵、松原融らを輩出した。晩年には頼山陽の父である頼春水や、京都の易学者である皆川淇園とも深く交流している。
藍泉は本城紫巌や青木葵園と共に徳山藩の藩学を興隆させ、徳山藩第7代藩主・毛利就馴によって天明5年(1785年)2月に藩校の鳴鳳館が創立されると、初代教授に就任した本城紫巌と共にその学政を司った。享和3年(1803年)に紫巌が死去すると第2代教授に就任し、文化5年(1808年)には学則を集大成して「徳府学範」一篇を制定した。また、幽蘭社という詩社を立ち上げ、同志と集まって詩文を論じ合った。藍泉の著作としては『藍泉文集』3巻、『藍泉漫筆』、『藍泉一家言』、『大道公論』、『藍泉新語』、『藍泉詩集』等がある。
文化6年(1809年)9月28日に死去し、上田平墓地に葬られた。享年59。
評価
[編集]- 広瀬淡窓「藍泉は修験なり。修験にして文辞ある者古今なし。藍泉一人なり。亀井父子極めてこの人を重んず。昭陽少年のとき山陽に遊び、行きて謁見し、弟子の礼を取れり。これも詩文の風李王を学び、徂徠の説を宗とする故に、亀井は同調相合する者なり。その人は篤実の君子なるべし」(『儒林評』)