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役藍泉

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
役藍泉
時代 江戸時代中期
生誕 宝暦元年(1751年
死没 文化6年9月28日1809年11月5日
改名 島田浄観
別名 通称:右京
:道甫
:藍泉、興山
墓所 周南市泉原共同墓地山口県周南市
主君 毛利就馴広鎮
周防徳山藩
氏族 島田氏
父母 父:役赤城
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役 藍泉(えん の らんせん/えき らんせん)は、江戸時代中期の儒学者徳山藩藩校である鳴鳳館の第2代教授で、徳山藩学の基礎を築いた人物の一人。本名は島田浄観だが、徳山修験宗教学院の住職であったことから、宗祖である役小角から「役」の字を取って「役藍泉」、「役観」と称する。孫に島田蕃根がいる。

生涯

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宝暦元年(1751年)、役赤城の子として徳山に生まれる。

徳山藩儒学者国富鳳山や、江戸に塾を開いていた萩藩の儒学者・滝鶴台から古文辞学(徂徠学)を学んだ。また、福岡藩亀井南冥と親しく交流したことから、藍泉の学問には亀井学の強い影響が見られる。藍泉は博学多才で、平素から「言行」「経済(国を治める道)」「事業(事を成す)」の三綱領をもって自らを戒めていた。

藍泉は詩文に長ずること徳山藩第一と称され、亀井南冥の子である亀井昭陽をはじめとして、諸国から藍泉の名を慕って徳山に学びに来る者が多く、門人からは林正忠浅見栄三郎松岡松陵桜井玉樹国富彦恭町田淵松原融らを輩出した。晩年には頼山陽の父である頼春水や、京都の易学者である皆川淇園とも深く交流している。

藍泉は本城紫巌青木葵園と共に徳山藩の藩学を興隆させ、徳山藩第7代藩主・毛利就馴によって天明5年(1785年)2月に藩校鳴鳳館が創立されると、初代教授に就任した本城紫巌と共にその学政を司った。享和3年(1803年)に紫巌が死去すると第2代教授に就任し、文化5年(1808年)には学則を集大成して「徳府学範」一篇を制定した。また、幽蘭社という詩社を立ち上げ、同志と集まって詩文を論じ合った。藍泉の著作としては『藍泉文集』3巻、『藍泉漫筆』、『藍泉一家言』、『大道公論』、『藍泉新語』、『藍泉詩集』等がある。

文化6年(1809年9月28日に死去し、上田平墓地に葬られた。享年59。

評価

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  • 広瀬淡窓「藍泉は修験なり。修験にして文辞ある者古今なし。藍泉一人なり。亀井父子極めてこの人を重んず。昭陽少年のとき山陽に遊び、行きて謁見し、弟子の礼を取れり。これも詩文の風李王を学び、徂徠の説を宗とする故に、亀井は同調相合する者なり。その人は篤実の君子なるべし」(『儒林評』)

伝記

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参考文献

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  • 徳山市史編纂委員会『徳山市史 上』、616-618頁(1971年)
  • 家臣人名事典編纂委員会編『三百藩家臣人名事典 第六巻』、210-211頁(新人物往来社、1989年)