国富鳳山
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時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 宝永4年(1707年) |
死没 | 宝暦12年9月19日(1762年11月4日) |
改名 | 国富彦敬 |
別名 |
通称:熊之助→惣左衛門 字:子礼、号:鳳山 |
墓所 | 本正寺(山口県周南市) |
主君 | 毛利広豊→広寛 |
藩 | 周防徳山藩 |
氏族 | 国富氏 |
父母 | 父:国富忠亮、母:吉原冝陳の娘 |
兄弟 | 鳳山、女(本城恒光室) |
妻 | 新見経重の娘 |
子 | 嶺南 |
国富 鳳山(くにとみ ほうざん)は、江戸時代中期の儒学者。徳山藩士。諱は彦敬。家格は中小姓、禄高は27石。徳山藩学の基礎を築いた人物の一人。
生涯
[編集]宝永4年(1707年)、徳山藩士・国富忠亮の長男として生まれる。人柄は温厚で言行をいやしくせず、名誉や利益には執着しない人物であったと伝わる。
壮年の頃に江戸へ出て、太宰春台と共に荻生徂徠門下の双璧と称された服部南郭に師事し、3年間古文辞学(徂徠学)を学んだ後に帰国した。
延享元年(1744年)に父・忠亮が隠居したためその後を継ぎ、徳山藩藩主・毛利広豊の信任を受けて侍講を務めると共に、徳山藩の子弟に古文辞学等を教え、剣槍弓馬を鍛錬した。また、鳳山は音韻にも詳しく、『両韻弁』や『鳳山詩集』を著した。
当時の儒学は朱子学が中心であったが、鳳山は世評を気にせずに古文辞学を説いたため、徳山の古文辞学はこれ以降盛んになり、徳山藩の儒学教育の源流となった。鳳山の門下からは本城紫巌、役藍泉、青木葵園らが出ている。
宝暦12年(1762年)9月19日に病死。享年56。鳳山の家塾は、子の嶺南(彦章)が継いだ。墓は山口県周南市の本正寺にあり、墓碑は長州藩の藩校である明倫館の祭酒・小倉鹿門が撰している。
鳳山の門弟達は鳳山の死を悲しみ、青木葵園は「西天明月没し、南海夜珠沈む、人は遺編を抱いて哭し、恨は旧感を兼ねて深し」と賦し、役藍泉は「時移り人おのずから尊し、千秋我が業を思えば、萬巻これ誰の恩ぞ」と述べている。