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影山裕子

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

影山 裕子(かげやま ひろこ、1932年2月1日 - 2005年9月13日[1])は、日本の社会評論家、和光大学名誉教授[1][2][3][4]

長く日本電信電話公社に勤務し、調査役[5]、国立電報電話局長などを歴任して女性管理職の先駆的存在として知られ、評論家としても活動し、女性の社会進出を訴え、後には和光大学教授となった[1][2][4][6]

影山は、女性の社会進出の妨げになるとして、労働時間に関する女子の保護規定撤廃を唱えるなど、男女雇用機会均等法(1986年)を先取りする主張を早くから展開していた[1][6]

経歴

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長野県小諸市出身[1](出生地は北海道札幌市[1])。長野県松本深志高等学校を経て[1]1954年東京大学経済学部を卒業し[1]、成績トップで日本電信電話公社に入り[1]、経営調査室に配属された[6]。1957年7月から米国のコーネル大学労使関係学部に留学や日本生産性本部への国内留学も経験し、労働経済学と婦人の問題について研究した[1]1964年に著書『奥様のアルバイト』が大きな反響を呼んでからは、電電公社在職のまま評論家としても活動した[1][6]

1971年には、日本有職婦人クラブ会長となった[1][4]

1988年日本電信電話会社を退職して和光大学経済学部教授に転じ、経営学総論などを講じた[1][6][7]

おもな著書

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単著

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  • 奥様のアルバイト:夫には喜ばれ,社会にも参加できる、光文社カッパ・ブックス)、1964年
  • 女性の能力開発:経営管理の盲点、日本経営出版会(ケイエイ叢書)、1968年
  • 目標管理定着のコツ10カ条:生きた実践のためのアドバイス、池田書店、1968年
  • 入社試験合格の秘訣:女子大生のための就職ガイド、青葉出版、1984
  • 経営学総論、青葉出版、1987年
  • わが道を行く:職場の女性の地位向上をめざして、学陽書房、2001年 - 自伝

共著

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訳書

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  • F・マウル 、職場の婦人幹部、ダイヤモンド社、1960年
  • J・D・バッテン、やる気を起こす組織風土:目標管理を生かすためのチェックリスト、産業能率短期大学出版部、1967年
  • ハーバート・G・ヒックス、人間行動と組織:行動科学と経営管理論の統合、産業能率短期大学出版部、1969年
  • ラルフ・G・ニコルス、レオナード・A・スティーブンス、聞き方で成功する、産業能率短期大学出版部、1969年

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m 朝日新聞長野版、2005年9月22日、28頁
  2. ^ a b “影山裕子さん死去”. 朝日新聞・朝刊: p. 39. (2005年9月19日). "日本電信電話公社(現NTT)の女性管理職の先駆けで、女性労働力の有効利用などを呼びかけた。"  - 聞蔵IIビジュアルにて閲覧
  3. ^ 影山裕子さん死去/評論家”. 四国新聞 (2005年9月19日). 2015年12月29日閲覧。
  4. ^ a b c デジタル版 日本人名大辞典+Plus『影山裕子』 - コトバンク
  5. ^ “小汀氏らが聞く 「ふところ放談」 大蔵大臣アワー”. 朝日新聞・朝刊: p. 9. (1965年2月18日). "聴き手は経済評論家小汀利得、小林七郎、電電公社調査役影山裕子の三氏、…"  - 聞蔵IIビジュアルにて閲覧
  6. ^ a b c d e “日本的経営病:4 カイシャ大国:20(戦後50年 第3部)”. 朝日新聞・朝刊: p. 2. (1994年11月30日). "「日本じゅうの奥さま、家庭に閉じこもっていないで、アルバイトをしましょう」と呼びかける影山裕子著「奥様のアルバイト」が出版されたのは、一九六四年(昭和三十九年)のことである。… 家事・育児に差し支えのない範囲で社会に出ることを勧めたこの本は、ベストセラーになった。日本電信電話公社(電電公社、現NTT)に勤めていた当時三十二歳の影山は、一躍有名になった。新聞に、テレビに、講演会に、次から次に登場するようになり、社員でありながら「評論家」の肩書がついた。… 影山が東大経済学部を卒業した五四年 … 電電公社の入社内定者は、成績順に張り出される慣例だった。その第一番に影山の名が挙げられた。… 男と一緒に電柱をかついだりさせるのはまずいんじゃないか、ということで、研究職的な経営調査室の配属になった … ところが影山は、男性と同じ扱いを受けないことが不満でたまらなかった。「私は調査というのは嫌いなんです」。米国留学を志願したら認められ、日本生産性本部に国内留学を志願したときも認められたが、戻ってきたときは、やはり経営調査室だった。昇格でも、同期の中でいつもただ一人取り残された。… 労働時間の女子保護規定の撤廃を唱えるようになる。… 八八年、定年に一年残して和光大学教授に転じる。… 今は「経営学総論」を講じている。"  - 聞蔵IIビジュアルにて閲覧
  7. ^ 影山裕子. “女と男”. 和光大学. 2015年12月29日閲覧。