当幌駅
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当幌駅 | |
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とうほろ Tōhoro | |
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所在地 | 北海道標津郡中標津町字当幌本通 |
所属事業者 | 北海道旅客鉄道(JR北海道) |
所属路線 | 標津線 |
キロ程 | 40.7 km(標茶起点) |
電報略号 | タホ |
駅構造 | 地上駅 |
ホーム | 1面1線 |
開業年月日 | 1937年(昭和12年)10月30日[1] |
廃止年月日 | 1989年(平成元年)4月30日[1] |
備考 | 標津線廃線に伴い廃駅 |
当幌駅(とうほろえき)は、かつて北海道標津郡中標津町字当幌本通に設置されていた、北海道旅客鉄道(JR北海道)標津線の駅(廃駅)である。電報略号はタホ。事務管理コードは▲111704[2]。
歴史
[編集]- 1937年(昭和12年)10月30日:国有鉄道(国鉄)標津線の駅として開業[3]。一般駅[1]。
- 1959年(昭和34年)4月1日:民間に業務委託化[4][5]。上武佐駅・奥行臼駅とともに釧路鉄道管理局管内初の業務委託駅となる[6]。
- 1968年(昭和43年)
- 1984年(昭和59年)2月1日:荷物の取り扱いを廃止[1]。
- 1986年(昭和61年)11月1日:完全無人化[7]。
- 1987年(昭和62年)4月1日:国鉄分割民営化により、JR北海道に継承[1]。
- 1989年(平成元年)4月30日:標津線の全線廃止に伴い、廃駅となる[1]。
駅名の由来
[編集]アイヌ語に由来するが諸説ある。
駅構造
[編集]廃止時点で、単式ホーム1面1線を有した。駅舎は構内の南東側(標茶方面に向かって左側)の中標津寄りに有った。
貨物及び荷物取り扱い廃止までは、駅舎側に貨物積降線がホームへの地上の連絡通路手前まで標茶側から引き込まれていた。荷扱い廃止後、貨物積降線が撤去されて島状の単式ホームとなった。
また、北西側(駅舎とは本線を隔てて反対側)の敷地内に、ほぼ平行に殖民軌道計根別線の路盤跡が残されていた。
利用状況
[編集]乗車人員の推移は以下のとおり。年間の値のみ判明している年については、当該年度の日数で除した値を括弧書きで1日平均欄に示す。乗降人員のみが判明している場合は、1/2した値を括弧書きで記した。
年度 | 乗車人員 | 出典 | 備考 | |
---|---|---|---|---|
年間 | 1日平均 | |||
1978年(昭和53年) | 27 | [10] |
駅周辺
[編集]- 阿寒バス「当幌」停留所
現状
[編集]- 駅舎やホームはなくなっているが、駅前広場が残っている。
隣の駅
[編集]脚注
[編集]- ^ a b c d e f g 石野哲 編『停車場変遷大事典 国鉄・JR編 II』(初版)JTB、1998年10月1日、927頁。ISBN 978-4-533-02980-6。
- ^ 日本国有鉄道営業局総務課 編『停車場一覧 昭和41年3月現在』日本国有鉄道、1966年、247頁。doi:10.11501/1873236 。2023年4月2日閲覧。
- ^ a b 『北海道 駅名の起源』(第1版)日本国有鉄道北海道総局、札幌市、1973年3月25日、168頁。ASIN B000J9RBUY。
- ^ 中標津町史編さん委員会 編『中標津町史』中標津町、1981年、1064-1065頁。doi:10.11501/9570446 。2023年4月15日閲覧。
- ^ 「標津線三駅に請負制度実施」『交通新聞』交通協力会、1959年4月5日、1面。
- ^ 『釧路鉄道管理局史』日本国有鉄道釧路鉄道管理局、1972年10月14日、58頁。doi:10.11501/12757877。
- ^ 「通報 ●飯田線三河川合駅ほか186駅の駅員無配置について(旅客局)」『鉄道公報号外』日本国有鉄道総裁室文書課、1986年10月30日、12面。
- ^ a b “アイヌ語地名リスト ツキサ~トヨコ P81-90P”. アイヌ語地名リスト. 北海道 環境生活部 アイヌ政策推進室 (2007年). 2014年1月11日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年1月3日閲覧。
- ^ 本多 貢 (1995-01-25). 児玉 芳明. ed (日本語). 北海道地名漢字解. 札幌市: 北海道新聞社. p. 168. ISBN 4893637606. OCLC 40491505
- ^ 藤田, 稔 編『国鉄全駅大事典』藤田書店、1980年4月30日、917頁。doi:10.11501/12065814 。