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張鳴岐

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
張鳴岐
清末に撮影
プロフィール
出生: 1875年[1]
死去: 1945年9月[1]
出身地: 清の旗 山東省無棣県[1][2]
職業: 政治家
各種表記
繁体字 張鳴岐
簡体字 张鸣岐
拼音 Zhāng Míngqí
ラテン字 Chang Ming-ch’i
和名表記: ちょう めいき
発音転記: チャン・ミンチー
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張 鳴岐(ちょう めいき、1875年1945年9月)は、清末・中華民国の政治家。字は伯堅、号は韓斎[1]

事績

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1894年(光緒20年)、甲午科挙人となる。1898年(光緒24年)、岑春煊の幕僚となり、その下で広西太平思順道尹や広西布政使を歴任した。1906年(光緒32年)に広西巡撫、1910年(宣統2年)に両広総督と昇進した。翌1911年4月23日、黄花崗起義に遭ったが張自身は命からがら脱出し、蜂起軍は清軍に鎮圧される[3]。しかし、同年中の辛亥革命でまたしても革命派の攻撃に遭い、張は地位を捨てて逃亡した[1]

中華民国成立後の1913年(民国2年)10月24日、張鳴岐は広西民政長(後に巡按使)に任命された。1915年(民国4年)7月3日、広東巡按使に移り、12月21日、袁世凱の皇帝即位に併せて一等伯に特封されている[4]。袁世凱死後は下野し、上海や天津などで長期間隠棲していた[1][5]

1942年(民国31年)3月30日、南京国民政府(汪兆銘政権)の華北政務委員会諮詢会議を創設すると、張鳴岐は委員に就任した[6]。実務的な権限を持たないとはいえ、政治の表舞台へ約26年ぶりに復帰したことになる。1944年(民国33年)5月19日の諮問会議においても、張は委員に再任された[7]

1945年(民国34年)9月、死去。享年71[1]

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  1. ^ a b c d e f g 章主編, 聞ほか編(1990)、458頁。
  2. ^ 外務省情報部編(1928)、164頁は「海豊県」と記載しているが、これは無棣県の旧称である。
  3. ^ 曹著、曹汝霖回想録刊行会編訳(1967)、39頁。
  4. ^ 中華民国政府官職資料庫「姓名:張鳴岐」
  5. ^ 外務省情報部編(1928)、164頁。
  6. ^ 『時事年鑑 昭和18年版』時事通信社、1942年、545頁。
  7. ^ 『同盟時事月報』8巻5号通号216号、1944年6月14日、同盟通信社、89頁。

参考文献

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  • 章伯鋒主編, 聞黎明ほか編『北洋軍閥(1912-1928) 第6巻 (北洋軍閥大事要録)』武漢出版社、1990年。 
  • 外務省情報部編『現代支那人名鑑 改訂』東亜同文調査編纂部、1928年。 
  • 曹汝霖著, 曹汝霖回想録刊行会編訳『一生之回憶』鹿島研究所出版会、1967年。