張仲直
張仲直 | |
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プロフィール | |
出生: | 1901年[1] |
死去: |
1951年5月20日 中国北京市 |
出身地: | 清湖北省武昌府武昌県(現在の鄂城区) |
職業: | 政治家 |
各種表記 | |
繁体字: | 張仲直 |
簡体字: | 张仲直 |
拼音: | Zhāng Zhòngzhí |
ラテン字: | Chang Chung-chih |
和名表記: | ちょう ちゅうちょく |
発音転記: | ジャン ジョンジー |
張 仲直(ちょう ちゅうちょく、繁体字: 張仲直; 簡体字: 张仲直; 繁体字: 張仲直; 拼音: Zhāng Zhòngzhí; ウェード式: Chang Chung-chih、1901年 - 1951年5月20日)は、中華民国の政治家。汪兆銘政権の要人。
事績
[編集]1919年に日本へ留学し、神戸高等商業学校の第17回生として入学した。1923年に卒業し、東京商科大学(現一橋大学)に進学している。
1937年(民国26年)12月に中華民国臨時政府が成立した後、翌1938年(民国27年)5月15日に同政府行政委員会委員長兼行政部総長・王克敏の下で行政部秘書となった[2][3]。同年10月22日、行政委員会事務処処長に任命されている[4]
1940年(民国29年)3月、臨時政府が汪兆銘政権に合流し華北政務委員会に改組された後も、委員長・王克敏の下で張仲直は引き続き腹心を務めた[3]。5月4日、張は華北政務委員会秘書庁事務処処長代理に就任した[5][6][7]。6月6日、王が汪兆銘(汪精衛)らとの対立の末に委員長等を辞職すると、張も追随して同日に事務処処長代理を辞職しようとした[8]。ところが委員会から強く引き止められた模様で、6月9日には暫行代理という形で留任している[9]。その後8月1日になって、ようやく辞職が認められた[10]。同年中には、張は王に随従して訪日し、母校の神戸商業大学を訪問している[11]。1941年(民国30年)4月、北京華北電業理事に任命された[11]。
1943年(民国32年)2月8日、華北政務委員会委員長が王揖唐から朱深に交替し、人事刷新となる。張仲直は華北政務委員会政務庁庁長に任命された[12][13]。同年7月4日、朱深病没(同月2日)により王克敏が委員長に返り咲く。同年11月11日、華北政務委員会の大幅な改組に伴い、張は委員会委員兼財務庁庁長代理兼総務庁次長代理に就任した[14]。1945年(民国34年)2月、財務庁庁長代理と総務庁次長代理を退き、華北政務委員会委員のみを務めている[15]。張は日本語が堪能であり、日本人との交流を頻繁に進めたとされる[16]。
中華人民共和国成立後の1951年5月20日、北京市人民政府は反革命罪などで張仲直に死刑判決を言い渡し、直ちに執行した[17]。享年51。
脚注
[編集]- ^ 『人民日報』1951年5月23日、第6版が「五十一歳」(数え年と考えられる)と記載していることによる。
- ^ 臨時政府令、令字第197号、民国27年5月15日(『政府公報』第18号、臨時政府行政委員会公報処、民国27年5月23日)。
- ^ a b 王・船寄(1999), p. 51.
- ^ 臨時政府令、令字第287号、民国27年10月22日(『政府公報』第40号、臨時政府行政委員会公報処、民国28年10月24日)。
- ^ 華北政務委員会令、任字第4号、民国29年5月4日(『華北政務委員会公報』第1-6期、民国29年6月9日、華北政務委員会政務庁情報局、本会6頁)。
- ^ 郭主編(1990)、1884頁。
- ^ なお王・船寄(1999) & p52は、1940年10月に事務処長に任命された、としているが、公報上では確認できない。
- ^ 華北政務委員会令、会字第20号、民国29年6月6日(『華北政務委員会公報』第1-6期、民国29年6月9日、華北政務委員会政務庁情報局、本会5頁)。
- ^ 華北政務委員会任用令、任字第315号、民国29年6月9日(『華北政務委員会公報』第1-6期、民国29年6月9日、華北政務委員会政務庁情報局、本会39頁)。
- ^ 華北政務委員会令、会字第41号、民国29年8月1日(『華北政務委員会公報』第13-18期、民国29年8月9日、華北政務委員会政務庁情報局、本会6頁)。
- ^ a b 王・船寄(1999), p. 51-52.
- ^ 国民政府令、民国32年2月8日(『華北政務委員会公報』第191・192期合刊、民国32年2月28日、華北政務委員会政務庁情報局、国府2頁)。
- ^ この時、張仲直は秘書庁庁長代理も兼ねた。3月16日に兼職解除され(華北政務委員会令、会字第1018号、民国32年3月16日。『華北政務委員会公報』第199・200期合刊、本会8頁)、秘書庁庁長代理は祝書元が引き継いだ。
- ^ 郭主編(1990)、1885頁。なお劉ほか編(1995)、1058頁では、財務庁庁長につき「代理」とは記載していない。
- ^ 郭主編(1990)、1885頁。劉ほか編(1995)、1059頁。
- ^ 王・船寄(1999), p. 52.
- ^ 『人民日報』1951年5月23日、第6版。同日に処刑された著名人物としては、張海鵬・池宗墨・張仁蠡・富双英などがいる。
参考文献
[編集]- 王嵐, 船寄俊雄「神戸高等商業学校の中国人留学生に関する研究」『神戸大学発達科学部研究紀要』第7巻第1号、神戸大学発達科学部、1999年9月、37-57頁、doi:10.24546/81000348、hdl:20.500.14094/81000348、ISSN 09197419、NAID 110000552127。
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。
- 郭卿友主編『中華民国時期軍政職官誌』甘粛人民出版社、1990年。ISBN 7-226-00582-4。