弘前学院聖愛中学高等学校
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弘前学院聖愛中学高等学校 | |
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北緯40度34分17.8秒 東経140度28分13.4秒 / 北緯40.571611度 東経140.470389度座標: 北緯40度34分17.8秒 東経140度28分13.4秒 / 北緯40.571611度 東経140.470389度 | |
国公私立の別 | 私立学校 |
設置者 | 学校法人弘前学院 |
設立年月日 | 1886年 |
共学・別学 | 男女共学 |
中高一貫教育 | 併設型 |
課程 | 全日制 |
単位制・学年制 | 学年制 |
設置学科 | 普通科 |
学校コード |
D102310000011 高等学校) C102310000031 (中学校) | (
所在地 | 〒036-8144 |
青森県弘前市大字原ケ平字山元112-21 | |
外部リンク | 公式サイト |
ウィキポータル 教育 ウィキプロジェクト 学校 |
弘前学院聖愛中学高等学校(ひろさきがくいん せいあいちゅうがく・こうとうがっこう)は、青森県弘前市大字原ケ平字山元に所在する私立中学校・高等学校。キリスト教(プロテスタント)主義のミッションスクールである。
歴史
[編集]1800年代
[編集]1886年(明治19年)、弘前教会牧師本多庸一と遺愛女学校第2代校長メアリー・ハンプトンが協議の上、キャロライン・ライトの寄付による基金の一部をもって、教会内に女学校を開設し、校名はミセス・ライトにちなんで、来徳女学校と称した[1]。来徳女学校は、女学校ではあったが、教師は2名、生徒十数名のうち男子2名が混じっていた[1][2]。
1887年(明治20年)、遺愛女学校の分校の形をとり、校名を弘前遺愛女学校とした[1][3]。
1900年代
[編集]その後、弘前女学校を経て1946年に聖愛高等女学校となった[1]。
1950年には校名に弘前学院を加え、現校名となった。
2000年代
[編集]女学校として開学以来、女子校として歴史を歩んだが、2000年には男女共学となった。
2006年には聖愛中学校も再開し、現在の体制となっている。
沿革
[編集]- 1886年 - 本多庸一と遺愛女学校第2代校長メアリー・ハンプトンの協議の上、ミセス・ライトにちなんで来徳女学校として開校。
- 1887年 - 遺愛女学校の分校の形をとり、弘前遺愛女学校に改称。
- 1889年 - 弘前女学校として認可。
- 1901年 - 元大工町から坂本町に移転。
- 1946年 - 聖愛高等女学校に改称。
- 1947年 - 学制改革に伴い、聖愛中学校が発足。
- 1948年 - 学制改革に伴い、聖愛高等学校が発足。
- 1950年 - 弘前学院短期大学発足に伴い、現校名に改称。
- 1974年 - 坂本町から現在地に移転。
- 1980年 - 聖愛中学校が閉校。
- 1986年 - 創立100周年。
- 2000年 - 男女共学化。
- 2006年 - 聖愛中学校が再開。
交通
[編集]- 弘南鉄道大鰐線 「聖愛中高前駅」 徒歩10分
- 奥羽本線(JR東日本)・弘南鉄道弘南線 「弘前駅」より スクールバス20分
- 弘南バス 「聖愛高校前」
- 鯵ヶ沢本町 - 聖愛高校線(鬼沢・高杉・弘前駅前経由)
- 青女子 - 聖愛高校線(三世寺・弘前駅前経由)
- 西目屋役場前 - 聖愛高校線(相馬庁舎経由)
- 黒石駅 - 聖愛高校線(高田・豊蒔経由)
- 冬期間(12月 - 3月)には、城東団地・宮園団地・船沢からの路線も設定される。
- 登校時間以外は路線バスの設定がない。日中の最寄停留所は「実業高校前」徒歩15分。
- 登下校時には路線バスの他に弘前駅と弘前東高前駅からのスクールバスが設定されている。
部活動について
[編集]- 野球部は2012年夏(第94回)の全国高等学校野球選手権青森大会で初めて決勝に進出し、光星学院高等学校(現・八戸学院光星高等学校)に敗れ準優勝。また、2013年夏(第95回)の全国高校野球選手権青森大会で八戸学院光星高等学校や青森山田高等学校などを破り初優勝。青森代表として出場。(春夏通じて初の甲子園出場)[4][5]その年の夏の甲子園では春のセンバツで2度優勝経験のある沖縄尚学高等学校を破るなどして初出場ながら3回戦に進出したが、延岡学園高等学校に敗れた。青森は八戸学院光星、青森山田の2強であり、両校とも関西圏出身の選手が多い中、同校は選手全員が青森出身ということもありメディアからは「りんごっ子」と呼ばれ話題となった。監督の原田は2008年に学校近くの下宿を自らローンを組んで買い取り、自宅兼寮となる「聖球館」をつくった。一つ屋根の下で選手との間に固い信頼関係を育んだ。
- 女子バレーボール部は春の高校バレーや高校総体に出場している。
- 女子バスケットボール部もウインターカップや高校総体に出場経験がある。
主な部活動
[編集]- 中学
- 陸上競技
- 体操
- バドミントン
- バスケットボール
- テニス
- 卓球
- 弓道
- 空手道・剣道
- チアリーディング
- 野球
- 吹奏楽
- 調理・手芸
- 理科
- 軽音楽
- 高校
- 別局
- YWCA
- 応援団
著名な関係者
[編集]- 本多庸一 - 弘前教会牧師。来徳女学校・弘前遺愛女学校の開学に尽力した[1][3]。
- メアリー・ハンプトン - 遺愛女学校第2代校長。本多庸一と共に本学の開設に尽力した[1][3]。弘前女学校の校長も務めた[6]。
- 本多貞 - 本多庸一の妻。婚前名:長嶺貞。盛岡藩士族長嶺忠司の二女として生まれ、東京女子師範学校(現 お茶の水女子大学)で学び[7]、遺愛女学校で教師を務めた[8]。後、弘前女学校において教頭を務めた[9]。
著名な出身者
[編集]→「Category:弘前学院聖愛高等学校出身の人物」も参照
芸能
[編集]スポーツ
[編集]系列校
[編集]関連項目
[編集]- 青森県中学校一覧
- 青森県高等学校一覧
- 高等女学校
- 旧制中等教育学校の一覧 (青森県)
- 小説『青い山脈』の登場人物が通う海光女学校のモデルといわれる[10]。
- 『ふらいんぐうぃっち』 - 石塚千尋による漫画。主人公の通う高校のモデルとされている。
脚注
[編集]- ^ a b c d e f 公式ホームページ.
- ^ “広瀬院長の弘前ブログ”. 2014年4月26日閲覧。
- ^ a b c “聖愛の歴史 pdf資料”. 2014年5月3日閲覧。[リンク切れ]
- ^ “聖愛が初の甲子園” (pdf). 東奥日報 インターネット号外. p. 1 (2013年7月23日). 2013年7月23日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年7月23日閲覧。
- ^ “聖愛が初の甲子園” (pdf). 東奥日報 インターネット号外. p. 2 (2013年7月23日). 2013年7月23日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年7月23日閲覧。
- ^ 安田寛, 北原かな子「弘前女学校の音楽教育」『弘前大学教育学部紀要』第82号、弘前大学教育学部、1999年10月、87-95頁、CRID 1050001202550282624、hdl:10129/1567、ISSN 0439-1713、NAID 110000322293。
- ^ “お茶の水女子大学デジタルアーカイブズ, 小学師範科卒業生アルバム, 番号:g_ph188107-0006”. 2014年5月25日閲覧。
- ^ 安田寛, 北原かな子「弘前と遺愛女学校の音楽教育」『弘前大学教育学部紀要』第80号、弘前大学教育学部、1998年10月、37-47頁、CRID 1050282677533057664、hdl:10129/1566、ISSN 0439-1713、NAID 110000322262。
- ^ 安田寛, 北原かな子「弘前女学校の音楽教育」『弘前大学教育学部紀要』第82号、弘前大学教育学部、1999年10月、87-95頁、CRID 1050001202550282624、hdl:10129/1567、ISSN 0439-1713、NAID 110000322293。
- ^ 『石坂洋次郎』人と文学シリーズ 現代日本文学アルバム、学研、1980年、22頁。
参考文献
[編集]- “聖愛の歴史: 弘前学院聖愛中学高等学校公式ホームページ”. 2023年10月2日閲覧。