弘中隆包
時代 | 戦国時代 |
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生誕 | 大永元年(1521年)? |
死没 | 天文24年10月3日(1555年10月28日) |
別名 | 隆兼 |
墓所 | 専徳寺 |
官位 | 中務丞、三河守 |
主君 | 大内義興→義隆→義長 |
氏族 | 弘中氏 |
父母 | 父:弘中興勝(弘中興兼) |
兄弟 | 隆包(隆兼)、方明(就慰) |
子 | 隆助 、梅他 |
弘中 隆包(ひろなか たかかね)は、戦国時代の武将。戦国大名大内氏の家臣。大内義興の家臣で評定衆を務めた弘中興勝(興兼とも(文明13年(1481年)に興兼名義での奉書が残っている[1]))の嫡男。正式な諱は「隆包」だが[要出典]、主君義長は「隆兼」と記載していた[2]。
生涯
[編集]出自
[編集]弘中氏は清和源氏の流れを組み、壇ノ浦の戦い後から代々岩国の領主を務めていた家系である。室町時代より周防の大名・大内家の中心を支える氏族となり、奉行職や軍事職などの要職を代々務めてきた。また弘中家は隆包の代まで長らく白崎八幡宮(岩国市)の大宮司を兼ねていた[3]。隆包は大内義隆に仕え、智勇兼備の武将として名声高く若くして数多くの武勲を上げたとされる。 生年には諸説あるが、天文9年(1540年)以前の業績については同じ三河守を名乗った父・弘中興勝の業績と混同する史書や歴史家も多い。 大永7年(1527年)時点では祖父・弘中武長(越後守)に軍忠状が送付されている[4]。 天文12年(1543年)には弘中下野守(つまり興勝[5][6])宛てに吉川経安から送られた書状がある[7]。
安芸国での活躍
[編集]隆包は、その功績から岩国だけでなく安芸の分郡(東西条)の代官にも任じられ、享禄2年(1529年)には毛利元就らと共に松尾城(安芸高田市)などを落とす[8]。その後、安芸国で大内氏と尼子氏の勢力争いが激しくなると、尼子方に属する頭崎城(東広島市)の攻略に劣勢を強いられたことから、天文7年(1538年)頃に東西条の代官を杉隆宣(杉氏一族、隆相の父)に代えられてしまうが、天文10年(1541年)の吉田郡山城の戦い後に大内義隆が安芸守護に任じられると、隆包も安芸守護代を命じられた[8](1547年には西条守護殿と呼称されている[9])。天文12年(1543年)に槌山城の城主となり、安芸における大内氏勢力の要として活躍した[8]。さらには、備後へ向けた経略も担当している。
天文11年(1542年)には、大内家の月山富田城遠征に従軍するが、城を落とすことができずに大内軍は敗走。動揺する安芸・備後の国人たちが尼子方に寝返るのを防ぐことに努め、翌12年(1543年)から数年にわたって行われた神辺城(尼子方の山名理興の居城)の攻略(神辺合戦)を、毛利軍などと共に行っている[8]。天文17年(1548年)7月には、義隆の命を受けて神辺城周辺地域で大規模な稲薙(青田刈り)を行っている[10]。
なお、元就とは公私共に親交を深めており、大内軍の月山富田城遠征の際には、意見を共にして義隆に献策するほどの仲であった。また、元就の2人の息子である毛利隆元(山口に人質として3年間滞在した間に親交を深めた)や吉川元春とも親しい間柄であったという。隆包は、同じく大内家臣の江良房栄と共に、元就の力量をよく知っていたと考えられる[8]。
厳島の戦い
[編集]天文20年(1551年)に、陶隆房(のちの晴賢)が義隆に対して謀反を起こして甥の大内義長を擁立した(大寧寺の変)。隆包は謀反には反対論を通したが[要出典]、反乱後に陶晴賢(隆房から改名)と共に義長に属したことから、同調していたとされる[8][11]。なお、この頃の槌山城は菅田宣真が守っており、隆包の城ではなかった[8]。
天文22年(1553年)4月、陶家臣の毛利房宏と共に筑前国に出陣し、陶晴賢に対して反抗的であった原田隆種の高祖城(糸島市)を攻めた[10]。
天文23年(1554年) に生じた三本松城の戦いにも従軍。三本松城(津和野城)の支城である賀年城を攻めた時には、近くにある茶臼山(八幡山)に陣を張ったと伝わる[12]。
大内・陶と毛利の関係が決裂した後、天文24年(1555年)3月に、毛利との内通が疑われた江良房栄を晴賢の命によって岩国で殺害する[8][10](晴賢は隆包の内通も疑い、身の潔白証明のために殺害させたともされる)[要出典]。厳島の戦い直前の9月には、晴賢が厳島に全軍を移そうとしていることに反対し、陸路による安芸侵攻を主張[8]。元就の謀略であると義長に直訴したり晴賢の妻を通したりするなどして[要出典]再三諫言したが、三浦房清ら諸将の声に乗せられて血気にはやる晴賢は聞き入れなかった。この頃、己の最期を覚悟した隆包は妻や娘梅に繰り返し、案ずるな安心せよとの書状を残している。苦懐極み乍、家族へのあたたかな思いやりに満ちた胸を打つ絶筆である。
ついに隆包は、実弟の方明を岩国に残して、嫡子の隆助と共に厳島に渡海したが、村上水軍が毛利方に付いたのを見て、大内軍の敗戦を覚悟したと伝わる[10]。隆包の予想通り、罠にかかった大内軍は総崩れとなった。大混乱に陥った大内軍の中で唯一陣を保全した隆包は、塔の岡(厳島神社のすぐ北にある丘陵)付近で自ら盾となって総大将の晴賢を逃がした[注釈 1][13]。潰走する大内軍の中で、弘中父子とその手勢500はさらに抵抗を続けるも、吉川元春らの攻撃を受けて大聖院付近から民家に火を放って逃亡する[13]。やがて晴賢は自刃したが、弘中隊は100名足らずで天険の駒ヶ林(標高約509メートル)の竜ヶ馬場に籠もった。3日間の孤軍奮戦の末、最後は吉川軍に囲まれて遂に討死した。
死後
[編集]同月7日付で娘の梅が相続することを義長から認められている[14]。
隆包の智勇と忠節を深く悼んだ元就は、弘中の縁者を毛利家で登用・保護するなどして特に厚く遇した。そのため、安芸や周防一帯では弘中家の縁の者が住職を勤める寺院が数多くあった。吉川広家が隆包の領土であった岩国の領主となった時、今地氏を名乗り始めた隆包の孫(今地良房)が白崎八幡宮の宮司になることが許され今に至る[3]。また、藩内に隆包の曾孫が通津専徳寺(岩国市)を開基することを許され、昭和16年(1941年)に隆包の墓がその境内に移された。
自らの死を知りながら忠義のために渡海した弘中隆包の最期は、西国の悲運譚として講釈等で語り継がれている。
なお、岩国市にある「中津居館跡」が弘中氏の居館と推定されており、大内氏館(山口市)に匹敵する規模を誇る[15]。同跡は、かつて「加陽和泉守居館跡」と呼ばれていたが、加陽和泉守(毛利水軍の一人)は厳島の戦い後に中津居館跡に駐留しただけの人物であり、本来の館主ではないことが判明したため2012年に改称された[16]。隆包が討死した後は、地元では弘中氏の名が語られなくなったことから、加陽和泉守の名が残ってしまったと推測されている[17]。中津居館跡内にあった薬師堂一帯は2022年4月、整備され薬師堂公園となっている。
家系
[編集]源頼義 ┃ 清縄範良 ┃ 清縄良俊 ┃ 清縄良兼 ┃ 弘中兼胤 ┃ 弘中兼良 ┃ 弘中兼貞 ┃ 弘中兼勝 ┃ 弘中弘信 ┃ 弘中興勝 ┃ 弘中隆包 ┃ 弘中隆佐 ┃ 今地良房
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 博奕尾と呼ばれる峰に近い位置に陣を構えていた弘中隊の下山は、同じ方向から攻め下ってくる毛利軍と誤認され、大内軍の混乱を拡大したとも言われている。
出典
[編集]- ^ 大日本古文書 家わけ九 吉川家文書別集74頁、1932年発行
- ^ 「豊前市史 文書資料」西郷文書14、豊前市刊行、たか兼表記
- ^ a b 白崎八幡宮の由緒 - 白崎八幡宮公式サイト
- ^ 萩藩閥閲録4巻斎藤文書7
- ^ 「研究紀要」5号22頁、山口県文書館
- ^ 「通俗日本全史」13、207頁、早稲田大学出版部
- ^ 大日本古文書 家わけ九 吉川家文書別集61頁、1932年発行
- ^ a b c d e f g h i 毛利元就 「猛悪無道」と呼ばれた男(著:吉田龍司 2010年 新紀元社)
- ^ 「広島県史古代中世資料編3」大願寺文書44、1978年
- ^ a b c d 戦争の日本史12 西国の戦国合戦(著:山本浩樹 2007年 吉川弘文館)
- ^ 歴史群像シリーズ49 毛利戦記(1997年 学習研究社)
- ^ 嘉年故郷案内図 - 阿東地域交流センター嘉年分館(旧嘉年公民館)
- ^ a b 歴史群像シリーズ9 毛利元就(1988年 学習研究社)
- ^ 「豊前市史 文書資料」西郷文書14、豊前市刊行、たか兼表記
- ^ 中津居館跡の概要 - 岩国市教育委員会
- ^ 中津居館跡について(一問一答) - 岩国市教育委員会
- ^ 岩国にある県内屈指の中世遺跡と、大量の中国の埋納銭 - 元気発信!!「山口きらめーる」2013年3月22日 vol.248号(山口県広報広聴課)