廉隅
廉 隅 Lian Yu | |
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『中華民国維新政府概史』(1940年) | |
生年月日 | 1886年[1][2] |
出生地 |
清 江蘇省常州府無錫県 (現:無錫市) |
没年月日 | 1972年(民国61年)8月 |
死没地 | 台湾台北市 |
所属政党 | 中国国民党 (汪兆銘政権) |
在任期間 | 1939年4月 - 1939年8月 |
行政院長 | 梁鴻志 |
在任期間 | 1939年8月 - 1940年3月30日 |
行政院長 | 梁鴻志 |
廉隅 | |
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職業: | 外交官・政治家・司法官・弁護士 |
各種表記 | |
繁体字: | 廉隅 |
簡体字: | 廉隅 |
拼音: | Lián Yú |
ラテン字: | Lien Yü |
和名表記: | れん ぐう |
発音転記: | リエン ユー |
廉 隅(れん ぐう、1886年〈光緒12年〉 – 1972年 〈民国61年〉8月)は中華民国の外交官・政治家・司法官・弁護士。維新政府、汪兆銘政権(南京国民政府)の要人。別号は励清[3]、勵清 、礪清。
事績
[編集]日本に留学し、京都帝国大学で法学士の称号を取得した。帰国後は北京政府でまず外交部主事に就任する[4]。1912年(民国元年)8月24日には大理院推事に任命された[5]。
1913年(民国2年)1月24日、浙江高等審判庁庁長署理に任命されたが、同年11月22日に辞任する[5][6]。1914年(民国3年)3月10日、直隷高等審判庁庁長に任命され[5]、1920年(民国9年)9月までつとめた[7]。なお、1915年(民国4年)3月3日に中大夫の位階を授与されている[5]。1920年9月2日、河南高等審判庁庁長署理に異動したが、翌月の10月31日に早くも辞任した[5][8]。後に天津市で弁護士を開業する[4]。
中華民国維新政府成立後の1938年(民国27年)4月、廉隅は外交部次長に任じられたが、6月には一度辞任している。翌1939年(民国28年)2月、外交部長・陳籙が国民政府特務に暗殺されると、4月から8月まで廉が外交部長署理をつとめた。次いで実業部長署理に転任している[9]。
1940年(民国29年)3月、維新政府が汪兆銘(汪精衛)の南京国民政府に合流すると、いったんは立法委員に任ぜられる[4]。しかし同年末、廉隅は初代駐満洲国大使に任命され、1943年(民国32年)2月までこの役職を務めた(後任は陳済成)。いったん大使在部弁事となり、1945年(民国34年)5月に汪兆銘政権最後の駐日大使に任ぜられた[10]。
1945年8月の日本の降伏、汪兆銘政権崩壊以降における廉隅の詳細な動向は不明。しかし、最終的には台湾に渡っており、そこで郷長や無錫同郷会会員を務めた。1972年(民国61年)8月、死去[11]。享年87。
注
[編集]- ^ 『東京朝日新聞』昭和14年2月25日、2面。
- ^ 尾崎監修(1940)、377頁。
- ^ 劉ほか(1995)、1424頁。
- ^ a b c 『朝日新聞』(東京)昭和16年1月20日、1面。
- ^ a b c d e 中華民国政府官職資料庫「姓名:廉隅」
- ^ 劉ほか編(1995)、276頁。
- ^ 劉ほか編(1995)、190-193頁。
- ^ 劉ほか編(1995)、233頁。
- ^ 劉ほか編(1995)、1028頁。
- ^ 郭卿友主編『中華民国時期軍政職官誌 下』1919頁。
- ^ 死去日は、蔡石如「蘇人蘇事」(『江蘇文献』第3巻第22・23期、1972年11月16日)によれば8月13日、「無錫現代女才子汪季蘭 著中國民間藝術的今昔 由名記者成爲戲劇專家」(『無錫郷訊』第36期、1972年10月20日)によれば8月30日。
参考文献
[編集]- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。
- 郭卿友主編『中華民国時期軍政職官誌 下』甘粛人民出版社、1990年。ISBN 7-226-00582-4。
- 尾崎秀実監修「アジア人名辞典」『アジア問題講座 12』創元社、1940年。
中華民国維新政府
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