広瀬豊
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広瀬 豊(ひろせ ゆたか、1932年(昭和7年)1月18日 - 2006年(平成18年)7月20日)は日本の実業家、編集者。陸上競技社設立者・元社長、元関東学生陸上競技連盟会長。苗字の広は正確には广に黄。
略歴
[編集]愛知県稲沢市に生まれる。愛知県立一宮高等学校を1950年(昭和25年)に卒業、1954年(昭和29年)に法政大学経済学部を卒業し、ベースボールマガジン社に入社。季刊だった『陸上競技マガジン』の編集長に就任し、月刊化する功績を果たしたものの退社。その頃教科書出版に進出する講談社から、保健体育の編集者として声を掛けられ入社し、同時に1967年(昭和42年)に陸上競技専門誌『月刊陸上競技』[1]を創刊、編集長を務める。講談社が教科書出版から撤退した後はスポーツ出版部長を務め、日本雑誌協会の活動にも尽力していた。
1986年(昭和61年)に陸上競技社を設立し、社長に就任する。2001年(平成13年)から関東学生陸上競技連盟会長を務める。2006年(平成18年)7月20日に肺炎で死去、74歳。
人物
[編集]高校時代は、三段跳で国体出場などの活躍をする。法政大学に進学後、結核に掛かり引退し、関東学生陸上競技連盟の幹事として、ユニバーシアードへの参加などに尽力した。 2003年(平成15年)の箱根駅伝第79回より出場校を15校から20校に増やすなど、箱根駅伝を国民的な人気イベントに発展させ、また、トワイライトゲームスを開催するなど陸上競技の普及に尽力した。
参考
[編集]- 『現代物故者事典 2006-2008』(日外アソシエーツ、2009)
- 四国新聞-広瀬豊氏死去/関東学生陸上競技連盟会長
脚注
[編集]- ^ 広瀬が陸上競技社を設立後は、陸上競技社が編集し、講談社と共同で発行している。