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幸徳秋水

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
幸徳伝次郎から転送)
幸徳こうとく 伝次郎でんじろう
幸德 傳次󠄁郞
通称 幸徳 秋水
生年 1871年11月5日
生地 日本の旗 日本 高知県幡多郡中村町
(現:高知県四万十市中村京町)
没年 (1911-01-24) 1911年1月24日(39歳没)
没地 日本の旗 日本 東京府東京市牛込区市谷富久町
(現:東京都新宿区富久町)
東京監獄
思想 社会主義アナキズム
活動 大逆事件
裁判 死刑
刑場 東京監獄(市ヶ谷刑務所)
母校 国民英学会
影響を受けたもの 中江兆民
ピョートル・クロポトキン
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幸徳 秋水(こうとく しゅうすい、旧字体幸德 秋水1871年11月5日[1]明治4年9月23日〉 - 1911年〈明治44年〉1月24日)は、日本ジャーナリスト思想家共産主義者社会主義者無政府主義者(アナキスト)

本名は幸徳 伝次郎(こうとく でんじろう、旧字体幸德 傳次󠄁郞)で、一般的に知られている「秋水」の名は師事していた中江兆民から与えられたもの。幸徳事件大逆事件)で処刑された12名の1人である。

経歴

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中江兆民の門弟として

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1871年11月5日(旧暦明治4年9月23日)に高知県幡多郡中村町(現:高知県四万十市中村京町)で生まれる。実家は酒造業と薬種業を営む町の有力者で、元々は「幸徳井(かでい)」という姓で陰陽師の家だった。なお、のちに妻となる師岡千代子の父親は幕末尊王攘夷運動で活躍し、足利三代木像梟首事件首謀者とされている国学者師岡正胤である。

9歳で儒学者・木戸明の「修明舎」へ入り、四書五経を学ぶ。11歳で旧制中村中学校へ進学するも台風の影響で校舎が全壊し、再建されないまま退学を余儀なくされた。1887年(明治20年)に上京し、1888年(明治21年)11月から同郷の中江兆民の自宅に学僕として住み込み、中江の門弟となる。この時に中江から「秋水」の号を授かる。秋水は新聞記者を目指して板垣退助が社長を務める「自由新聞」で勤務し、小泉策太郎と親友になる。同年12月に公布・施行された保安条例によって東京を追われた兆民は、大阪へ移ると角藤定憲と会い、芝居の公演の企画を提唱した。その企画を受け入れた角藤は大日本壮士改良演劇会を旗揚げし、これがいわゆる「壮士芝居」の先駆けとなった。その時の演目の一つである「勤王美(義)談 上野曙」の執筆は、兆民が秋水に依頼したと言われている[2]

ゴシップ紙の記者として

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幸徳秋水、妻の千代子

秋水は1898年(明治31年)2月に中央新聞を去り、1892年(明治25年)に黒岩涙香が創刊した「萬朝報」の記者となる。萬朝報は日本におけるゴシップ報道の先駆けとして知られ、ひたすら権力者のスキャンダルを追及し、蓄妾実例といった人間のプライバシーを暴露する醜聞記事で売り出した新聞である。1899年(明治32年)末には東京で発行される新聞の中で発行部数第1位に達し、その数は最大で30万部にもなった。また、一時期は淡紅色の紙を用いたことから「赤新聞」とも呼ばれた。秋水は萬朝報の記者として勤務しながら国民英学会で学び、1900年(明治33年)8月30日に旧・自由党系の政党である憲政党が以前からの政敵である藩閥の伊藤博文と共に「立憲政友会」を結成したことを嘆き、萬朝報の同日付けの記事に「嗚呼、自由党死すや」との一文で有名な「自由党を祭る文」と題した批判論文を掲載した。また、同年6月から発生した義和団の乱(北清事変)制圧の際に日本軍が清国馬蹄銀を横領した容疑を萬朝報で追及し、陸軍中将真鍋斌を休職に追い込んだ(馬蹄銀事件)。このことで真鍋や山縣有朋から恨みを買い、これがのちの大逆事件へ繋がったとする説がある[3]。一方、同年5月には皇太子が結婚したが、これを祝福する社説を無署名であるものの萬朝報に記載した[4]

1899年(明治32年)、師岡千代子と結婚[5]

1901年(明治34年)5月20日に結成された社会民主党に創立者として参画した。しかし活動が即日禁止され、6月3日に組織変更として社会平民党への結社を届けるも、再び即日禁止される。同年には「廿世紀之怪物帝国主義」を刊行して帝国主義を批判する。これは当時では国際的に見ても先進的なもので、同年12月10日に田中正造足尾銅山鉱毒事件について明治天皇に直訴した際の直訴状はまず秋水が書き、田中が手を加えたものである。ただしこの直訴状については、田中が直訴状の執筆を依頼するものの依頼された者たちが後難を恐れて尻込みする中、秋水だけは断らずに書いたとも言われている[6]。同年に「秋水」の号を授かった兆民が亡くなり、1902年(明治35年)5月28日に兆民を追悼する「兆民先生」を発表した。

共産党宣言から渡米、無政府主義へ

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平民社の社屋。左隅で扇子を持っているのが幸徳秋水。中央で紋付を着てステッキを持っているのが堺利彦(1904年8月撮影)。
1909年に発刊した「自由思想」第1号

日露戦争1904年(明治37年)に勃発するが、その前年には戦争に反対する論調の新聞も存在する中で世論の空気はロシア帝国との開戦へと押されていった。秋水が記者を務める萬朝報も社論を非戦論から開戦論へ転換させたため、10月12日堺利彦内村鑑三石川三四郎と共に発行元の萬朝報社を退職する[7]。同年11月15日には堺と共に非戦論を訴え続けるために「平民社」を開業し、週刊「平民新聞」を1905年(明治38年)1月29日まで発行した。この頃、萬朝報で同僚だった斎藤緑雨が病に倒れて貧窮したため、平民新聞に緑雨のために「もゞはがき」という欄を設け、原稿料を得ることが出来るようにした[8]。緑雨はその送金が待ちきれず自ら平民社へ受け取りに来ることも多々あり、秋水はその度に小遣い銭を加えて渡していたという[8]

1904年(明治37年)には与露国社会党書を発表し、堺と共に「共産党宣言」を翻訳して発表するが即日発禁され、今村恭太郎裁判官により罰金刑となる[9]。そして1905年(明治38年)に新聞紙条例でついに投獄される。獄中でピョートル・クロポトキンを知り、秋水はこの頃から無政府主義(アナキスト)へ傾倒していく。出獄後の同年11月14日に渡米し、サンフランシスコでアメリカへ亡命していたロシアアナキストのフリッチ夫人やアルバート・ジョンソンらと交流し、アナルコ・サンディカリスムの影響を受けた。そのまま滞在していた最中の1906年(明治39年)4月18日にはサンフランシスコ地震に遭遇し、その復興としての市民による自助努力に無政府共産制の状態を見る[10]。地震の影響で同年6月23日には帰国して歓迎会が開催されたが、その席で秋水はゼネラル・ストライキによる直接行動論を提唱する。

その後、1月に成立した第1次西園寺内閣の融和政策のもとで結党が認められた日本社会党において、「国法ノ範囲内ニ於イテ社会主義ヲ主張ス」という合法主義を掲げていたため、秋水の掲げた実力行使[11]に対して党内は大きく揺れることになり、労働者による普通選挙運動を主張する片山潜田添鉄二らの「議会政策論」と対立し袂を分けることになった。秋水はのちに社会革命党岩佐作太郎と共に結成し、1907年(明治40年)2月5日付けの平民新聞に「余が思想の変化-普通選挙に就て」を発表して直接行動を主張した。その結果、1909年(明治42年)に「自由思想」を発刊するも即日発売禁止処分を受け、さらには赤旗事件で入獄していた荒畑寒村の妻・管野スガ(須賀子)と不倫関係を結び、同年3月に妻・千代子と離婚した[12]。スガ自身も事件に関与したとして過酷な取り調べを受けたが、当時は肺病を患っており乱闘に加わらなかったため、釈放されるも勤務先の「毎日電報」は解雇処分となった。秋水がスガと出会ったきっかけは、「自由思想」の創刊をスガと共に行ったことでスガがアナキズムに共鳴し、秋水からの経済的援助を受けたこと、さらに秋水が開業した平民社でスガが肺病の治療も兼ねて生活していたものが次第に同棲へ発展した。しかしこの関係はすぐに発覚し、秋水に対立する各新聞・雑誌がここぞとばかりに「重婚」「スキャンダル」と大きく報じたことで2人の関係は同志の間でも評判が悪化、秋水の周りから人が遠ざかっていく原因となったとも言われる。順調だった秋水の人生にも蹉跌の色が見え始めていた。

大逆事件~刑死

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1910年(明治43年)6月1日、秋水は神奈川県湯河原の「天野屋」へ来ていた。自由新聞での勤務時代に親友となった小泉に勧められての訪問で、内縁の妻となったスガの湯治を兼ねての宿泊中だった。そこへ警察が現れ、幸徳事件大逆事件)によって両者は逮捕された。獄中での秋水は同年11月21日に、神格化された存在としてのイエス・キリストを君主のメタファーとして君主を排する主張を行った「基督抹殺論」を脱稿する。その内容は神智学協会アニー・ベサントキリスト教論に合致する部分が多く、秋水におけるベサントの影響が指摘されている。結果的にはこれが秋水の遺稿となった[13]

1911年(明治44年)1月18日、秋水は大審院において「大逆罪」で有罪、死刑判決を受けた[1]。当時の大逆罪は未遂・予備含めて死刑しか定められておらず、大逆罪を認定されれば問答無用で死刑を言い渡される時代だった。そして同年1月24日、宮下太吉新村忠雄ら他の死刑囚11名と共に処刑された[14]。39歳没。内縁の妻であるスガも翌日に執行、刑死した。

こうした当局の対応については国内外の知識人層から批判があった。当局は社会主義者の一掃を図ることを目的としており、この事件の発覚をきっかけに事件への関与が薄く、大逆罪に該当しない秋水らに対して警察や政府によるフレームアップ(でっち上げ)で処刑した。刑死した12名のうち、実際に明治天皇の暗殺を計画・検討し、大逆罪に該当する可能性があったのは内縁の妻・スガと新村、宮下、さらに同時に死刑が執行された古河力作の4名と見られたが、前述のように事件当時、首謀者の1人に名指しされたスガと同棲関係にあった秋水が暗殺計画の存在を知っていた可能性は無いとは言えないが、そもそもスガは肺病で療養中で、彼女が首謀者だったという検察の主張にはかなり無理があった。

なお、警察に逮捕された秋水のもとには元妻である千代子が面会に訪れていたが、秋水は千代子が持参した手弁当には全く手を付けなかったという。しかし、秋水の墓は高知県四万十市の正福寺で千代子の墓と隣接している。碑銘は親友だった小泉の手によるもの[12]だが、正福寺の所在地が高知地方検察庁中村支部・高知地方裁判所中村支部の裏手にあるため、戦前は墓碑に鉄格子がはまっている状態だった。

死後、各方面への反響

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秋水らの死刑を阻止するために、徳富蘆花は自身の兄である徳富蘇峰を通じて内閣総理大臣桂太郎へ嘆願したが果たせず、秋水らは1911年(明治44年)1月に処刑された。同年2月1日に、秋水に心酔していた第一高等学校弁論部河上丈太郎森戸辰男の主催で「謀叛論」を講演したが、校長である新渡戸稲造らの譴責問題に発展し、校内で騒動となった。

秋水が法廷で「いまの天子は、南朝の天子を暗殺して三種の神器を奪い取った北朝の天子ではないか」と発言したことが外部に漏れ、南北朝正閏論が起こった[15]。これに対し、帝国議会衆議院において国定教科書の南北朝併立説を非難する質問書が提出され、議会は秋水の死後である2月4日に、南朝を正統とする決議を出した。この決議によって、教科書執筆の責任者である喜田貞吉が休職の処分を受け、これ以降の国定教科書では「大日本史」を根拠に三種の神器を所有していた南朝を正統とする記述に差し替えられた。

1912年(明治45年)6月には上杉慎吉天皇主権説を発表し、美濃部達吉天皇機関説を主張する。当時の大学周辺では美濃部の天皇機関説が優勢になったが、のちに上杉の天皇主権説が優勢となる。馬蹄銀事件で秋水らを疎ましく思っていた山県有朋は、のちにロシア革命が勃発してから極秘に反共主義を進め、上杉の天皇主権説を基礎にした国体論が形成されていく[16]。また、秋水の遺稿となった「基督抹殺論」は君主制廃止の観点から書かれたものだが、神社神道国教としていた政府は反キリスト教の観点から刊行を認めた。秋水の「基督抹殺論」は第二次世界大戦の時期までキリスト教に否定的な右翼や官僚、軍人、神職などに広く読まれたが、昭和時代中期に入るとキリスト教への圧迫のために悪用されてしまった。

大逆事件は文学者たちにも大きな影響を与えた。石川啄木は事件前夜にピョートル・クロポトキンの著作や公判記録を独自に入手・研究し、「時代閉塞の現状」「A LETTER FROM PRISON」などを執筆した。木下杢太郎は、1911年(明治44年)3月に戯曲「和泉屋染物店」を執筆する。

秋水の新たな資料が発見された1960年代以降、大量の研究書が発表されている。その結果、幸徳事件(大逆事件)は国家によるフレームアップ(でっち上げ)の典型例であることが確実となった。批評家の柄谷行人浅田彰絓秀実鴻英良らは、大逆事件を日本の帝国主義の重大な指標としてみなし、その波及効果を研究している。他の評価としては批評家の福田和也愛国者として秋水を評価するものがある[17]。また、秋水の代表作である「帝国主義」はジョン・アトキンソン・ホブソンウラジーミル・レーニンらの帝国主義論に先駆けるもので、独自の批判的分析を展開している。2008年(平成20年)にはクリスティーヌ・レヴィ(Christine Lévy)によってフランス語への翻訳 "L'impérialisme, le spectre du XXe siècle"(Paris, CNRS editions)が行われるなど、近年は国外でも再検討されている。

藤田東湖会沢正志斎が中枢となった水戸学が「忠君愛国」を提唱し、「攘夷」「尊王」という考え方を打ち出した。水戸学の「将軍より天皇の方が上位である」という思想戦によって明治維新が成し遂げられたが、明治維新の元勲たちからすれば水戸学を否定することは出来ない。その水戸学が教えるのが「南朝正統」説で、後醍醐天皇の南朝こそ正統の天皇であり、北朝の天皇は偽物であるという指摘だった。しかし、明治政府が担いでいる明治天皇は明らかに北朝の子孫である。水戸学が主張するように「南朝の子孫が真の正統である」とすると秋水の主張の通り、明治天皇は偽物ではないかという議論が成立する[18]

2000年(平成12年)、秋水の出生地である中村市議会は「幸徳秋水を顕彰する決議」を全会一致で議決した。

著述

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単著
翻訳
演説
著作史料
  • 飛鳥井雅道編・解説『幸徳秋水集』(『近代日本思想大系』第13巻)、筑摩書房、1975年(昭和50年)11月。
  • 伊藤整・『幸徳秋水』(『日本の名著』第44巻)、中央公論社、1970年(昭和45年)9月。
  • 大逆事件の真実をあきらかにする会編『大逆帖-堺氏蔵』、大逆事件の真実をあきらかにする会、1981年(昭和56年)1月。
  • 塩田庄兵衛編『幸徳秋水の日記と書簡』増補決定版、未來社、1990年(平成2年)4月。
  • 中島及『幸徳秋水漢詩評釈』、高知市民図書館、1978年(昭和53年)3月。
  • 山泉進編・解題『幸徳秋水』(平民社資料センター監修『平民社百年コレクション』第1巻)、論創社、2002年(平成14年)10月。ISBN 4-8460-0353-1
  • 『幸徳秋水文集』(『解放群書』 第7編)、解放社、1926年(大正15年)。
  • 『幸徳秋水集』(『改造文庫覆刻版』第1期)、改造図書出版販売、1977年(昭和52年)2月。
  • 幸徳秋水全集編集委員会編『幸徳秋水全集』全9巻・別巻2巻・補巻、明治文献、1968年(昭和43年) - 1972年(昭和47年)。復刻:日本図書センター、1994年。
  • 『帝国主義』山泉進校注(岩波文庫 青版125-1)、岩波書店、2004年(平成16年)6月。ISBN 400-3312511
  • 『兆民先生・兆民先生行状記』(岩波文庫 青版125-4)、岩波書店、1960年、度々復刊。ISBN 400-3312546
    • 改版『兆民先生 他八篇』梅森直之校注(岩波文庫)、2023年。ISBN 400-3312597

参考文献

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  • 秋山清・大沢正道『幸徳・大杉・石川-日本アナキストの原像』、北日本出版社、1971年(昭和46年)。
  • 飛鳥井雅道『幸徳秋水-直接行動論の源流』(『中公新書』193)、中央公論社、1969年(昭和44年)6月。
  • 絲屋寿雄著『幸徳秋水伝』、三一書房、1950年(昭和25年)。
  • 絲屋寿雄著『幸徳秋水研究』、青木書店、1967年(昭和42年)。
  • 絲屋寿雄著『幸徳秋水』(『Century books』『人と思想』)、清水書院、1973年(昭和48年)。
  • 絲屋寿雄『幸徳秋水研究』増訂版(吉田精一監修『近代作家研究叢書』53)、日本図書センター、1987年(昭和62年)10月。
  • 大河内一男『幸徳秋水と片山潜-明治の社会主義』(『講談社現代新書』)、講談社、1972年(昭和47年)。
  • 大野みち代編『幸徳秋水』(『人物書誌大系』3)、日外アソシエーツ、1982年(昭和57年)6月。
  • 大原慧『幸徳秋水の思想と大逆事件』、青木書店、1977年(昭和52年)6月。
  • 神崎清『実録幸徳秋水』、読売新聞社、1971年(昭和46年)。
  • 坂本武人『幸徳秋水-明治社会主義のシンボル』(『センチュリーブックス』・『人と歴史シリーズ』日本36)、清水書院、1972年(昭和47年)。
  • 坂本武人『幸徳秋水-明治社会主義の一等星』(『清水新書』)、清水書院、1984年(昭和59年)10月。
  • 塩田庄兵衛『幸徳秋水』(『新日本新書』)、新日本出版社、1993年(平成5年)6月。
  • 田中惣五郎『幸徳秋水 一革命家の思想と生涯』(『人物評伝三部作』)、三一書房、1971年(昭和46年)。
  • 西尾陽太郎『幸徳秋水』(日本歴史学会編『人物叢書』新装版)、吉川弘文館、1987年(昭和62年)5月
  • F・G・ノートヘルファー(竹山護夫訳)『幸徳秋水-日本の急進主義者の肖像』、福村出版、1980年(昭和55年)2月。
  • 林茂『近代日本の思想家たち-中江兆民、幸徳秋水、吉野作造』(『岩波新書』)、岩波書店、1958年(昭和33年)
  • 師岡千代子『夫・幸徳秋水の思ひ出』、東洋堂、1946年(昭和21年)
  • 師岡千代子『風々雨々-幸徳秋水と周囲の人々』、隆文堂、1947年(昭和22年)
  • 山泉進「社会主義と社会進化論-幸徳秋水」、野田又夫・田丸徳善・峰島旭雄編著『近代日本思想の軌跡-西洋との出会い』、北樹出版、1982年(昭和57年)4月。
  • 山泉進「幸徳秋水のなかのアナーキズム-自由思想と大逆と」、『現代思想』第32巻第6号(特集=アナーキズム)、2004年(平成16年)5月。
  • 渡辺順三編『十二人の死刑囚 大逆事件の人々』、新興出版社、1956年(昭和31年)

脚注

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  1. ^ a b 新聞集成明治編年史編纂会 編「幸徳傅次郎等無政府主義者の大逆事件 = 判決下る 大審院の特別裁判◇二十四名死刑〔一・一九東朝〕」『新聞集成明治編年史』 14巻(3版)、林泉社、1940年6月28日、359-364頁。NDLJP:1920445/202 
  2. ^ 松本克平『日本社会主義演劇史 明治大正篇』(筑摩書房,1975)
  3. ^ 小林一美『義和団戦争と明治国家』汲古書院、1986、ISBN 4762923346
  4. ^ 原武史『大正天皇』53頁。朝日選書663、朝日新聞社、2000年
  5. ^ 師岡千代子』 - コトバンク
  6. ^ 足尾鉱毒明治天皇直訴文
  7. ^ 坂野潤治田原総一朗『大日本帝国の民主主義』小学館,2006年,139頁
  8. ^ a b 師岡千代子 「夫・幸徳秋水の思い出」1946年東洋堂。
  9. ^ 玉岡敦(東北大学・院)『『共産党宣言』邦訳史 』143頁、経済学史学会第75回大会、2011年
  10. ^ 4月24日付で雑誌『光』へ秋水が寄せた一文より。
  11. ^ 秋水は、1906年(明治39年)6月28日に東京・神田の錦輝館で行われた日本社会党演説会で、議会主義か直接行動かの問題を提示していた。(幸徳秋水研究 糸屋寿雄)
  12. ^ a b 梅田俊英. “近代日本における社会運動と高知県” (PDF). 2018年10月3日閲覧。
  13. ^ 小森健太郎 幸徳秋水『基督抹殺論』とアニー・ベサントの〈世界教師〉論 文学・芸術・文化 : 近畿大学文芸学部論集27(1), 116-110, 2015-09 近畿大学文芸学部
  14. ^ 『官報』第8277号、明治44年1月26日、p.493. NDLJP:2951631/5
  15. ^ 岩城之徳「啄木と南北朝正閏論問題」『石川啄木と幸徳秋水事件』(近藤典彦編・吉川弘文館、平成八年)所収。滝川政次郎「誰も知らない幸徳事件の裏面」『人物往来』昭和三十一年十二月号。また池島信平編「歴史よもやま話し」、花田清輝『室町小説集』講談社pp.10-11.も参照。
  16. ^ NHKスペシャル2009年5月3日放送「シリーズJAPAN 第二回 天皇と憲法」
  17. ^ 福田和也『余は如何にしてナショナリストになりし乎』光文社pp.92-96。また「我が鍾愛の奇人伝(1)幸徳秋水」『新潮45』2009年6月号
  18. ^ 本郷 和人. 軍事の日本史 鎌倉・南北朝・室町・戦国時代のリアル (朝日新書)

関連項目

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外部リンク

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