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平田光宗

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
平田光宗
時代 戦国時代 - 江戸時代前期
生誕 享禄2年(1529年
死没 慶長10年12月26日1606年2月3日
別名 新七、左馬介(通称)、舜芦(入道名)
戒名 真翁昌安
墓所 円秀寺
官位 美濃守
主君 島津義久
氏族 平田氏
父母 父:平田宗秀、母:大友氏の娘
養父:平田昌宗
兄弟 光宗宗茂
正室:平田昌宗の娘
歳宗勝宗
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平田 光宗(ひらた みつむね)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての薩摩国島津氏の家臣。

生涯

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薩摩平田氏の庶流平田宗秀の長男として誕生するが、平田氏嫡流の昌宗に男子が無かったため、その娘婿として養子に入った。

養父の昌宗は島津貴久家老を務め、光宗も天正3年(1575年)より、貴久の後を継いだ島津義久の家老に抜擢された。薩摩国郡山(現・鹿児島県鹿児島市郡山町)と西別府(現・鹿児島市西別府町)を領し、下郡山に住んでいたが、後に帖佐(現・鹿児島県姶良市)と肥後国八代(現・熊本県八代市)の地頭に任じられ、それぞれに在番した。

天正11年(1583年)、在城していた八代から堅志田(現・熊本県下益城郡美里町)へ討ち入り、阿蘇氏の兵を数千余討ち取った。天正14年(1586年)の岩屋城攻めや天正15年(1587年)の根白坂の戦いで義久の供をし、天正16年(1588年)に義久が上洛する際もその太刀役として同行した。

慶長10年12月(12月であるため西暦変換すると1606年)、郡山にて死去した。

参考文献

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  • 本藩人物誌』 鹿児島県史料集(13)(鹿児島県史料刊行委員会)