平岡通義
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平岡 通義(ひらおか みちよし、1831年9月20日(天保2年8月15日[1])- 1917年(大正6年)4月2日[2])は、幕末の長州藩士、明治期の官僚・政治家。元老院議官、錦鶏間祗候。旧名・兵部[1]。
経歴
[編集]長門国阿武郡松本村(現山口県萩市)で長州藩士の家に生まれる[3]。干城隊参謀として第二次長州征討の石州口の戦いに従軍し、石州占領地の奉行を務めた[2]。さらに戊辰戦争に参加し越後口から米沢まで従軍した[2]。明治2年4月14日(1869年5月25日)越後府判事試補に就任した[1]。
明治2年9月28日(1869年11月1日)東京府出仕となり、同少参事、同権大参事を務める[1]。明治4年9月14日(1871年10月27日)工部少丞に就任[1]。以後、造船権頭、製作頭兼造船頭、工部大丞兼製作頭、製作頭、営繕局長、営繕頭、内国勧業博覧会御用掛、皇居御造営御用掛、皇居御造営事務局調査課長、同監事、工部省営繕課長、同総務局営繕課長、皇居御造営残業御用掛などを歴任[1]。
1887年12月22日、元老院議官となり、1890年10月20日の廃止まで在任し非職となり錦鶏間祗候を仰せ付けられ[1]、1904年5月19日、願って錦鶏間祗候を免ぜられた[4]。
平岡は工部省、皇居御造営事務局での働きを通して、セメント製造の推進、銀座通りの改築、深川猿江貯木所の改良、人材の育成などを推進し、日本の建築界の発展に尽くした[5]。
1917年4月、老衰のため東京市外砂村の自宅で死去した[6]。
家族
[編集]- 養子・平岡盛三郎 - 市川兼恭二男
栄典
[編集]脚注
[編集]参考文献
[編集]- 『大正過去帳 物故人名辞典』東京美術、1973年。
- 我部政男・広瀬順晧編『国立公文書館所蔵 勅奏任官履歴原書 下巻』柏書房、1995年。
- 安岡昭男編『幕末維新大人名事典』下巻、新人物往来社、2010年。
- 「名誉会員平岡通義君の畧伝」『建築雑誌』第277号、1910年。
公職 | ||
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先代 岡本健三郎(→欠員→廃止) |
営繕頭 1875年 - 1877年 |
次代 (廃止) |
先代 肥田浜五郎 |
製作頭 1872年 - 1875年 (1872年途中まで肥田浜五郎と共同) |
次代 大鳥圭介 |
先代 肥田浜五郎 |
造船頭 1872年 (肥田浜五郎と共同) |
次代 肥田浜五郎 |