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平岡通義

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
平岡兵部から転送)

平岡 通義(ひらおか みちよし、1831年9月20日(天保2年8月15日[1])- 1917年大正6年)4月2日[2])は、幕末長州藩士明治期の官僚政治家元老院議官錦鶏間祗候。旧名・兵部[1]

経歴

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長門国阿武郡松本村(現山口県萩市)で長州藩士の家に生まれる[3]。干城隊参謀として第二次長州征討の石州口の戦いに従軍し、石州占領地の奉行を務めた[2]。さらに戊辰戦争に参加し越後口から米沢まで従軍した[2]。明治2年4月14日1869年5月25日)越後府判事試補に就任した[1]

明治2年9月28日(1869年11月1日)東京府出仕となり、同少参事、同権大参事を務める[1]。明治4年9月14日1871年10月27日)工部少丞に就任[1]。以後、造船権頭、製作頭兼造船頭、工部大丞兼製作頭、製作頭、営繕局長、営繕頭、内国勧業博覧会御用掛、皇居御造営御用掛、皇居御造営事務局調査課長、同監事、工部省営繕課長、同総務局営繕課長、皇居御造営残業御用掛などを歴任[1]

1887年12月22日、元老院議官となり、1890年10月20日の廃止まで在任し非職となり錦鶏間祗候を仰せ付けられ[1]1904年5月19日、願って錦鶏間祗候を免ぜられた[4]

平岡は工部省、皇居御造営事務局での働きを通して、セメント製造の推進、銀座通りの改築、深川猿江貯木所の改良、人材の育成などを推進し、日本の建築界の発展に尽くした[5]

1917年4月、老衰のため東京市砂村の自宅で死去した[6]

家族

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栄典

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脚注

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  1. ^ a b c d e f g 『国立公文書館所蔵 勅奏任官履歴原書 下巻』596-601頁。
  2. ^ a b c 『幕末維新大人名事典』下巻「平岡通養」348頁。
  3. ^ 「名誉会員平岡通義君の畧伝」53頁。
  4. ^ 『官報』第6264号、明治37年5月20日。
  5. ^ 「名誉会員平岡通義君の畧伝」54-56頁。
  6. ^ 『大正過去帳』123頁。
  7. ^ 『官報』第1003号「叙任及辞令」1886年11月1日。
  8. ^ 『官報』第772号「叙任及辞令」1915年3月2日。

参考文献

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  • 『大正過去帳 物故人名辞典』東京美術、1973年。
  • 我部政男・広瀬順晧編『国立公文書館所蔵 勅奏任官履歴原書 下巻』柏書房、1995年。
  • 安岡昭男編『幕末維新大人名事典』下巻、新人物往来社、2010年。
  • 「名誉会員平岡通義君の畧伝」『建築雑誌』第277号、1910年。
公職
先代
岡本健三郎(→欠員→廃止)
日本の旗 営繕頭
1875年 - 1877年
次代
(廃止)
先代
肥田浜五郎
日本の旗 製作頭
1872年 - 1875年
(1872年途中まで肥田浜五郎と共同)
次代
大鳥圭介
先代
肥田浜五郎
日本の旗 造船頭
1872年
(肥田浜五郎と共同)
次代
肥田浜五郎