平岡久左衛門
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平岡 久左衛門(ひらおか きゅうざえもん、前名・房五郎[1][2]、1861年4月3日(文久元年2月24日) - 1937年(昭和12年)8月5日[3])は、日本の実業家、政治家。東京府西多摩郡青梅町長[2][4]。平岡商店社長[2]。青梅銀行頭取[5]。武陽銀行専務取締役[1][2]。青梅電気鉄道取締役[2]。族籍は東京府平民[6]。海軍少将平岡貞一の兄[6]。
人物
[編集]東京・青梅出身。先代・久左衛門の長男[1][2]。1901年、家督を相続し前名・房五郎を改め襲名した[1][2]。資産家として知られた[2]。
武陽銀行[注 1]、青梅電気鉄道創始の功労者であり、武陽銀行の重役だった[2]。青梅町長を務めた。住所は東京府西多摩郡青梅町青梅[2](現・青梅市)。
家族・親族
[編集]- 平岡家
- 父・久左衛門[8][注 2](1830年 - ?、東京府平民、織物販売業、赤十字社正社員[10]、青梅町長)
- 弟・貞一[6](1868年 - 1946年、軍人)
- 妻・アイ(1868年 - ?、東京、北島與左衛門の長女)[1][2][5]
- 長男・規矩造(1887年 - ?)[2]
- 長女・ソノ(1889年 - ?、東京、平岡磯三郎の孫・長三郎の妻)[6]
- 二男(1891年 - ?、東京府人・中島政次郎の養子)[2]
- 三男・久左衛門(1894年 - ?、前名・陽三、武陽銀行監査役)[11][12]
- 二女・ツネ(1895年 - ?、東京、島田貫一の妻)[2]
- 四男・功治(1901年 - ?)[6]
- 五男・晋吾[6](1904年 - ?、平岡商店社員[4])
- 孫[6]
- 親戚
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b c d e 『人事興信録 第9版』ヒ29頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2021年8月7日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n 『人事興信録 第10版 下』ヒ32頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2016年2月11日閲覧。
- ^ 「(死亡広告)平岡久左衛門儀」『朝日新聞』1937年8月7日、4面。
- ^ a b 『日本紳士録 第36版』東京ヒの部635頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2018年5月19日閲覧。
- ^ a b c 『人事興信録 第8版』ひ31頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2016年2月11日閲覧。
- ^ a b c d e f g h 『人事興信録 第5版』ひ33、な88頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2016年2月11日閲覧。
- ^ 武陽銀行 - 銀行変遷史データベース。日本昼夜銀行はその後安田銀行→富士銀行に統合された。
- ^ 『大日本紳士鑑』東京府西多摩郡169頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2023年4月13日閲覧。
- ^ 『日本商工営業録 明治31年9月刊(第1版)』青梅町547頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2024年2月8日閲覧。
- ^ 『武蔵国三多摩郡公民必携名家鑑』1頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2016年2月11日閲覧。
- ^ a b c 『人事興信録 第13版 下』ヒ36頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2016年2月11日閲覧。
- ^ a b 『人事興信録 第14版 下』ヒ33頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2021年8月7日閲覧。
- ^ 『帝国裁縫大図解 絹綿布羅紗物』日本橋区7頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2023年4月13日閲覧。
参考文献
[編集]- 妹尾久造編『大日本紳士鑑』経済会、1895年。
- 柴田勇之助、新堀豊三郎編『武蔵国三多摩郡公民必携名家鑑』柴田勇之助ほか、1897年。
- 井出徳太郎編『日本商工営業録 明治31年9月刊(第1版)』日本商工営業録発行所、1898 - 1902年。
- 岩村秀太郎『帝国裁縫大図解 絹綿布羅紗物』女学社ほか、1916年。
- 人事興信所編『人事興信録 第5版』人事興信所、1918年。
- 人事興信所編『人事興信録 第8版』人事興信所、1928年。
- 人事興信所編『人事興信録 第9版』人事興信所、1931年。
- 人事興信所編『人事興信録 第10版 下』人事興信所、1934年。
- 交詢社編『日本紳士録 第36版』交詢社、1932年。
- 人事興信所編『人事興信録 第13版 下』人事興信所、1941年。
- 人事興信所編『人事興信録 第14版 下』人事興信所、1943年。