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平和劇場 (ソウル特別市)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
平和劇場
평화극장
Pyeonghwa Theatre
ロゴ
種類 事業場
市場情報 消滅
略称 平和
本社所在地 大韓民国の旗 大韓民国
ソウル特別市鐘路区
設立 1930年8月24日
業種 サービス業
事業内容 映画の興行
関係する人物 平松秀章
林和秀朝鮮語版
李承晩
特記事項:略歴
1930年8月24日 ミナト座開館
1932年 第一劇場と改称
1951年8月24日 平和劇場と改称
1962年 韓一劇場と改称
1977年3月10日 閉館
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平和劇場(へいわげきじょう、朝鮮語: 평화극장、ピョンハクッチャン)は、かつて存在した大韓民国映画館劇場である[1][2][3][4][5][6][7][8]。1930年(昭和5年)8月24日、日本統治時代の朝鮮京城府鐘路(現在の大韓民国ソウル特別市鐘路区鐘路4街5番地)に芝居小屋ミナト座(ミナトざ)として開館、まもなく映画常設館に業態を変更した[3][7][8]。1932年(昭和7年)には第一劇場(だいいちげきじょう、朝鮮語: 제일극장、チェイルクッチャン)と改称している[8]第二次世界大戦後も同名称であったが、朝鮮戦争中の1950年9月28日、林和秀朝鮮語版が同館を買収、翌1951年8月24日に「平和劇場」と改称、林は同館を拠点に韓国映画界に君臨した[8]四月革命での暴力事件により、林が1961年12月21日に処刑されるとともに「平和劇場」の時代は終わった[8]。経営者が変わり、韓一劇場(かんいちげきじょう、朝鮮語: 한일극장、ハニルクッチャン)と改称したが、1977年3月10日には閉館した[8][9]

沿革

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  • 1930年8月24日 - ミナト座として開館[3][7][8]
    • 同年11月22日 - 映画常設館に業態変更[3][8]
  • 1932年 - 第一劇場と改称[1][2][5]
  • 1935年3月23日 - 火災により閉館[10]、同年8月25日に営業再開[11]
  • 1951年8月24日 - 平和劇場と改称[8]
  • 1961年12月21日 - 経営者の林和秀が処刑される[8]
  • 1962年 - 経営者が変わり、韓一劇場と改称[8]
  • 1977年3月10日 - 閉館[8][9]

データ

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概要

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日本統治の時代

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1930年(昭和5年)8月24日、日本が統治する朝鮮の京城府鐘路4丁目1番地(現在の大韓民国ソウル特別市鐘路4街5番地)に芝居小屋ミナト座として開館する[3][7][8]。同地は「観商場」という寄席のような形態の小屋の跡地であった[3][8]。同館は、同府本町(現在の同市忠武路)に存在したミナト帽子店の経営者が設立、経営した劇場である[7]。館主はミナト座演劇部を設置して、実際の運営は、崔承一朝鮮語版および羅雲奎に任せていた[7]。同年10月3日、尹昌淳興行部直営の映画館になり、旧劇(歌舞伎)の劇場となったが、同年11月22日には映画常設館に業態変更している[3][7][8]。翌1931年(昭和6年)12月には、中外劇場の直営館になり、演劇専門館に戻る[4]

1932年(昭和7年)には第一劇場と改称した[1]。同年に出した同館の広告によれば、同館の入場料金は2種類あり、階上15銭・階下10銭(当時)の均一料金であり、「大衆料金」をセールスポイントにしていた[2]。当時の同館の興行系統は松竹キネマ(のちの松竹)およびアメリカ映画等の輸入映画(洋画)であった[1]。1934年(昭和9年)10月13日付の『東亜日報』にも、松竹キネマ作品の同館での上映について記されている[1]。同館の平均入場料金は優美館より1銭安い14銭(1932年当時)であり、既定の最低料金は優美館と同じ10銭(当時)であった[1]朝鮮劇場および團成社では、平均入場料金はそれぞれ27銭および25銭(当時)であり、同館の料金は同府内の清渓川以北(北村)では最低ランクであり、入場者数も収益も、朝鮮劇場や團成社と比較して半分以下であったという[1]

1935年(昭和10年)3月23日、映写室から火が出て火災になり、200名あまりの観客は無事であったが、内部は全焼した[10]。これにより一時閉館したが、改築されて同年8月25日には営業再開した[11]。新しい映画館ではあったが、トーキー設備の導入には出遅れ、同年火災を機に完備された[1][11]。したがって同館は、1930年代後半の同府内の映画館のなかでの位置づけは、優美館、東洋劇場、その他郊外の映画館らとともに「3等級館」であった[1]

1942年(昭和17年)に発行された『映画年鑑 昭和十七年版』によれば、同館の経営者は平松秀章、支配人も平松が兼務、観客定員数は800名と記されている[5]。第二次世界大戦が始まり、戦時統制が敷かれ、日本におけるすべての映画が同年2月1日に設立された社団法人映画配給社の配給になり、映画館の経営母体にかかわらずすべての映画館が紅系・白系の2系統に組み入れられるが、同資料には同館の興行系統については記述されていない[5]

『独立協会の青年 李承晩』公開時の新聞広告。

解放後の時代

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1945年(昭和20年)8月15日、第二次世界大戦が終了し、同年9月8日から1948年8月15日に大韓民国が建国されるまでの間は、在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁がこの地域を統治した。1950年9月28日、当時満26歳の林和秀(1924年 - 1961年)が同館を安価に払い下げ、翌1951年8月24日には平和劇場と改称、林は同館を拠点に韓国映画界に君臨した[8][12]。1953年3月29日には、同館で李蘭影朝鮮語版の楽団による歌劇『春香歌』『姉妹誕生』の公演が行われた記録がある[13]

林は韓国芸能株式会社を設立して映画製作を開始し、1957年10月16日には、林が製作者としてクレジットされた最初の作品『港の一夜』(朝鮮語: 항구의 일야、監督金火浪朝鮮語版)をソウル市内の國都劇場で公開した[12][14]。以降、19作の映画を製作している[12]。1959年(昭和34年)12月5日には、林が製作し、申相玉が監督して李承晩を描いた『独立協会の青年 李承晩』(朝鮮語: 독립협회와 청년 리승만、日本未公開[15])を国際劇場・國都劇場で2館同時に公開し[16]、翌1960年1月1日には、「新春特別プロ」として同館と城南劇場で同時に上映した際の広告が残っている(右写真)[17]。同年3月10日にソウル市内の国際劇場で公開された映画『娘』(朝鮮語: 、監督金火浪)が、結果的には林が製作した最後の作品になった[12]

同年4月18日、高麗大学校の学生約3,500名のデモ隊を同館近辺で襲撃し、死傷者を出した「高麗大生襲撃事件」を同館の経営者であった林が指揮し、これが引き金となっていわゆる「四月革命」が勃発、同年4月27日には李承晩が大統領を辞職して亡命、崔仁圭朝鮮語版ら政府サイド、林ら暴力団サイドも逮捕された。林は裁判の結果、死刑を宣告され、1961年12月21日には処刑されている[8]。林の没後、妻が経営を継承したが、韓一劇場に経営が移り、同館は韓一劇場と改称した[8]。1969年11月8日には、『黒山島娘』(朝鮮語: 흑산도 아가씨、監督權赫進、主演尹静姫朝鮮語版)が同館のほかオスカー劇場(大邱広域市)、南大門劇場(ソウル特別市)、東洋劇場(同)、永寶劇場(同)で封切られている[18]

韓国映画に特化した映画館として経営継続されたが、1977年3月10日、経営難により閉館した[8][9]。跡地には、1984年10月2日、地下3階・地上13階建の韓一ビルディングが竣工し、現在(2013年12月)に至る。

ギャラリー

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脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j 鄭忠實「1920年代-1930年代、京城の映画館 : 映画館同士の関係性を中心に」『コリア研究』第4巻、立命館大学コリア研究センター、2013年、77-92頁、CRID 1390290699792292096doi:10.34382/00007878hdl:10367/4708ISSN 1884-5215 
  2. ^ a b c 李修京, 全,昇喜「近代韓国の映画導入と1920年代までの映画政策考察」『東京学芸大学紀要. 人文社会科学系. I』第64巻、東京学芸大学学術情報委員会、2013年1月、43-66頁、CRID 1050288469019313024hdl:2309/132445ISSN 1880-4314 
  3. ^ a b c d e f g h 조선연극사 <삼국이전으로부터 현대까지> (朝鮮語)東亜日報、1931年7月2日付、2013年12月17日閲覧。
  4. ^ a b c 새로 조직된 중외극장 (朝鮮語)、東亜日報、1931年12月17日付、2013年12月17日閲覧。
  5. ^ a b c d e f g 年鑑[1942], p.10-109.
  6. ^ 年鑑[1943], p.504.
  7. ^ a b c d e f g h [2000], p.46.
  8. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v [2008], p.242, 337.
  9. ^ a b c d 한일극장 문닫아 흥행부진, 경영난 (朝鮮語)京郷新聞、1977年3月15日付、2013年12月17日閲覧。
  10. ^ a b 작석, 제일극장서 영사중 돌연 발화 (朝鮮語)、東亜日報、1935年3月24日付、2013年12月17日閲覧。
  11. ^ a b c 제일극장 재축 (朝鮮語)、東亜日報、1935年8月25日付、2013年12月17日閲覧。
  12. ^ a b c d 임화수 (朝鮮語)韓国映画データベース、2013年12月17日閲覧。
  13. ^ Theatre Ad 30MAR1953.jpg 春香歌 姉妹誕生、平和劇場、1953年3月30日付、2013年12月17日閲覧。
  14. ^ 항구의 일야 (朝鮮語)、韓国映画データベース、2013年12月17日閲覧。
  15. ^ Dokribhyeobhwiwa cheongnyeon Lee Seung-man - IMDb(英語), 2013年12月17日閲覧。
  16. ^ 독립협회와 청년 리승만 (朝鮮語)、韓国映画データベース、2013年12月17日閲覧。
  17. ^ Seung-man Seongnam Theatre Ad 1959.jpg 独立協会の青年 李承晩、平和劇場・城南劇場、1960年1月1日付、2013年12月17日閲覧。
  18. ^ 흑산도 아가씨 (朝鮮語)、韓国映画データベース、2013年12月17日閲覧。

参考文献

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  • 『映画年鑑 昭和十七年版』、日本映画協会、1942年発行
  • 『映画年鑑 昭和十八年版』、日本映画協会、1943年発行
  • 현대여성소설의 페미니즘 정신사』、임금복문학시대사、2000年4月10日発行 ISBN 8982064877
  • 박노홍의 대중연예사 1』、유인경김의경연극과인간、2008年12月31日発行 ISBN 8957862897

関連項目

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外部リンク

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