コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

朝鮮劇場

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
朝鮮劇場
조선극장
Chosen Theatre
種類 事業場
市場情報 消滅
本社所在地 日本の旗 日本
朝鮮京城府仁寺洞130番地(現在の大韓民国ソウル特別市鐘路区仁寺洞130番地)
設立 1922年11月6日
業種 サービス業
事業内容 映画の興行
代表者 館主 西村福松
関係する人物 早川増太郎
清水万次郎
特記事項:略歴
1922年11月6日 落成・開館
1936年6月11日 火災で全焼・閉館
テンプレートを表示

朝鮮劇場(ちょうせんげきじょう、朝鮮語: 조선극장、チョソンクッチャン)は、かつて存在した日本統治時代の朝鮮映画館劇場である[1][2][3][4][5][6][7]。1922年(大正11年)11月6日、日本が統治する朝鮮の京城府仁寺洞(現在の大韓民国ソウル特別市鐘路区仁寺洞)に落成・開館した[1][8]。1936年(昭和11年)6月11日、放火による火災で全焼して閉館した[9]ハリウッド映画の同地への紹介、演劇・歌唱の上演により、韓国演劇史に重要な役割を果たした[10]

沿革

[編集]
  • 1922年11月6日 - 落成・開館[1][8][10]
  • 1936年6月11日 - 火災で全焼・閉館[9][10]

データ

[編集]

概要

[編集]
同館の落成を報じる日本の朝鮮語新聞の記事、1922年11月6日付。
火災で炎上する同館、毎日申報、1936年6月13日付。

1922年(大正11年)11月6日、日本が統治していた時代の朝鮮の京城府仁寺洞130番地(現在の大韓民国ソウル特別市鐘路区仁寺洞130番地)に新築して開館した[1][8][10]。翌7日付の毎日申報(のちの毎日新報)に掲載された開館広告によれば、同館では、李東伯朝鮮語版の独唱や、当時の現代劇の劇団「萬波會」の演劇、ヨーロッパ映画やアメリカ映画の上映を行っていた[8][10]。1923年(大正12年)に劇団「土月會」に参加した洪思容(1900年 - 1947年)は、同劇場を拠点にして同劇団の上演を行ったが、1925年(大正14年)には資金難により同劇団を解散している。同年に発行された『日本映画年鑑 大正十三・四年』には、京城府の常設映画館として掲載されているが、所有者・経営者、興行系統については記載されていない[2]。同劇場では「土月會」のほか、「萬波會」、尹白南による「民衆劇團」(1922年)や「劇藝術研究會朝鮮語版」(1931年)、「山有花會」等が演劇の上演を行った。

映画史研究者の笹川慶子の指摘によれば、当時の経営者は、黄金館(のちの國都劇場、黄金町4丁目)の支配人であり、かつて有楽館と呼ばれた当時の喜樂館(本町1丁目)を経営した早川増太郎(早川孤舟)である[1]。早川は、興行のほかに東亜文化協会を設立して映画製作も行っており、1923年末、金肇盛を主演に「朝鮮初の商業用劇映画」とされる『春香傳』を製作・監督し、同館で封切っている[11]。同年12月25日付の『朝鮮日報』には同作の登場により、朝鮮古来の文芸の輝きが新たに増したと評価された[11]

島村抱月による芸術座付属俳優学校を卒業し、京城で俳優学校を開く等の活動をしていた新劇俳優玄哲朝鮮語版(1891年 - 1965年)[12]が、1927年(昭和2年)6月、同劇場の経営に参加している[13]。同年に発行された『日本映画事業総覧 昭和二年版』によれば、経営者についての記載はないが、支配人が金肇盛であるとし、興行系統は洋画の自由ブッキングであったとする[3]。金肇盛は『春香傳』に主演した人物であり、映画説明者(活動写真弁士)である。1929年(昭和4年)に発行された『日本映画事業総覧 昭和三・四年版』によれば、経営者が清水万次郎に代っており、観客定員数は800名、興行系統は引き続き洋画の自由ブッキングであった[4]。翌年発行の『日本映画事業総覧 昭和五年版』によれば、他の詳細は変わらぬまま、経営者が西村福松に代っている[5]。同劇場は上流の朝鮮人の住む北村に位置しており、開館当初から朝鮮人向けの洋画(輸入映画)を中心に映画上映を行っていたが、南村中心に居住・経済生活を送っていた日本人も同劇場で映画を観ており、「得難い名画を惜しい程次々に上映」したという高い評価が日本語雑誌『朝鮮公論』に掲載された[1]

朝鮮演劇文化協会常務理事を務めた俳優の岸本寬(金寬洙朝鮮語版、1905年 - 没年不詳)が、1934年(昭和9年)4月には、同劇場で作演出作品を上演している[14]。同年6月1日付の東亜日報に掲載された広告によれば、チャールズ・チャップリン監督・主演のサイレント映画街の灯』(アメリカ公開1931年1月30日、日本公開1934年1月20日[15][16])が、同日、同館で公開されている[17]。同広告には、同作の公開とともに、当時の人気歌手の申カナリヤ朝鮮語版(1912年 - 2006年)が特別出演する等の実演も行われる旨の記載がある[17]。同広告によれば同作公開後には『四十二番街』(監督ロイド・ベーコン、アメリカ公開1933年3月8日、日本公開同年6月22日[18])が同館で公開されている[17]

1936年(昭和11年)6月11日、昼間の興行中に放火に遭って全焼するという事件が起きている[9][10]。同月13日付の毎日申報の報道によれば、約300名の観客は無事で、付近への延焼も少なくて済んだという[9]。同記事では「大正十年」(1921年)の建築物であり、同年内に建築年限が満了するため新築計画があったとしているが[9]、この事件の後は復興されないまま閉館した[7][10]。『映画年鑑 昭和十七年版』に同館に相当する映画館の記載はない[7]

同劇場の跡地には、1943年(昭和18年)6月10日、京城府に鐘路區が新設されたときに、區廳が建設された。現在の区庁舎は鐘路区三峰路43番地にあり、區廳および同劇場の跡地は、現在、駐車場である。2003年(平成15年)には、跡地から少々ずれた位置にある「仁寺文化広場」に、同館が存在したことを示す石碑が建てられた。

ギャラリー

[編集]

脚注

[編集]
  1. ^ a b c d e f g 笹川慶子「京城における帝国キネマ演芸の興亡 : 朝鮮映画産業と帝国日本の映画興行」『大阪都市遺産研究』第3号、関西大学大阪都市遺産研究センター、2013年3月、19-31頁、NAID 120005687634 
  2. ^ a b 年鑑[1925], p.479, 506.
  3. ^ a b c d 総覧[1927], p.696.
  4. ^ a b c d 総覧[1929], p.302.
  5. ^ a b c d 総覧[1930], p.599.
  6. ^ 昭和7年の映画館 朝鮮 41館 Archived 2013年11月5日, at the Wayback Machine.、中原行夫の部屋(原典『キネマ旬報』1932年1月1日号)、2013年11月14日閲覧。
  7. ^ a b c 年鑑[1942], p.10-109.
  8. ^ a b c d 「新築落成」、朝鮮劇場開館広告、毎日申報、1922年11月7日付。
  9. ^ a b c d e 「朝鮮劇場全焼騒動」、毎日申報、1936年6月13日付。
  10. ^ a b c d e f g 한국[2008], p.166.
  11. ^ a b 1930年代日本帝国内における文化「交流」:映画『春香伝』の受容を中心に、梁仁實、立命館大学、2013年11月14日閲覧。
  12. ^ 李[2001], p.347.
  13. ^ 徐[1982], p.181.
  14. ^ 민[1994], p.163.
  15. ^ City Lights - IMDb(英語), 2013年11月11日閲覧。
  16. ^ 街の灯 - KINENOTE, 2013年11月14日閲覧。
  17. ^ a b c 「六月一日斷然公開」、朝鮮劇場『街の灯』公開広告、東亜日報、1934年6月1日付。
  18. ^ 42nd Street - IMDb(英語), 2013年11月11日閲覧。

参考文献

[編集]
  • 『日本映画年鑑 大正十三・四年』、アサヒグラフ編輯局東京朝日新聞発行所、1925年発行
  • 『日本映画事業総覧 昭和二年版』、国際映画通信社、1927年発行
  • 『日本映画事業総覧 昭和三・四年版』、国際映画通信社、1929年発行
  • 『日本映画事業総覧 昭和五年版』、国際映画通信社、1930年発行
  • 『映画年鑑 昭和十七年版』、日本映画協会、1942年発行
  • 『韓國近代戯曲史研究』、徐淵昊、高麗大學校民族文化研究所、1982年
  • 『한국희곡사연표』、민병욱、국학자료원、1994年
  • 『韓国の近現代文学』、李光鎬法政大学出版局、2001年
  • 『한국 현대 연극 100년』、한국연극협회、연극 과 인간、2008年 ISBN 895786282X

関連項目

[編集]

外部リンク

[編集]
画像外部リンク
朝鮮劇場址