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平保盛

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
平保盛
時代 平安時代末期 - 鎌倉時代前期
生誕 保元2年(1157年
死没 天福元年(1233年)?
改名 池殿
官位 正三位非参議
主君 安徳天皇後鳥羽天皇土御門天皇順徳天皇仲恭天皇後堀河天皇四条天皇
氏族 桓武平氏維衡流伊勢平氏
父母 父:平頼盛、母:藤原親通の娘[要出典]
兄弟 保盛為盛光盛仲盛知重保業
静遍、女(藤原基家)室、女(平清宗室)
正室藤原基光の娘[要出典]
高頼頼清保教
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平 保盛(たいら の やすもり)は、平安時代末期の武将。平頼盛庶長子

生涯

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応保2年(1162年)叙爵。長寛元年(1163年右兵衛佐越前守仁安元年(1166年尾張守に補任され、仁安2年(1167年)には昇殿、仁安3年(1168年)には正五位下と順調に昇進していたが、同年11月、後白河院の逆鱗により突然解官された。これは頼盛父子が後白河院に従わず、高倉天皇即位大嘗会の五節の舞姫の奉仕や皇太后平滋子の入内での保盛の行動が院の不興をかったためであった[1]

嘉応2年(1170年)には還官し、治承2年(1178年)には、従四位上中宮亮寿永元年(1182年)には正四位下となる。しかし、すでに同年代の従兄弟の通盛平教盛嫡子)、経正平経盛嫡子)は正四位下に昇進しており、庶長子のためか、保盛は彼らの下とされていた[2]。一族の当主平清盛と父頼盛との間には溝があり、寿永2年(1183年)7月の平家一門の都落ちには従わなかった。平家滅亡後は本官に還任されたが、嫡子とされた光盛に比べると、昇進もはかばかしくなく、承元3年(1209年)にようやく従三位非参議となった。翌承元4年(1210年)、正三位に叙される。建暦元年(1211年)に出家した。

保盛は九条家に仕えたといわれ[3]、九条家の家司であった藤原定家と親しかった。定家は保盛の子を養育していたこともあり[4]承久の乱で討たれた保盛の子保教を二人で偲んだこともあった[5]。また寛喜2年(1230年)正月、保盛の子高頼は右兵衛佐に任官されるが、高頼はたびたび定家邸を訪問し、定家に公事の指南を受けていた。『明月記』によれば、保盛は寛喜3年(1231年)頃から病がちとなり、天福元年(1233年)、定家邸を訪問した高頼は、定家に「厳父之病、危急云々、今年七十七云々」と語っている[6]。以後、保盛の登場記事はなく、この年に亡くなったものと推定されている[7]。「今年七十七云々」より、保盛の生年は保元2年(1157年)と推定される。

系譜

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  • 父:平頼盛(1133-1186)
  • 母:藤原親通の娘
  • 正室:藤原基光の娘
  • 生母不明の子女
    • 男子:平高頼
    • 男子:平頼清
    • 男子:平保教

脚注

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  1. ^ 兵範記』同年11月18日、28日条。高橋昌明『平清盛 福原の夢』(講談社2007年)p79-81 参照
  2. ^ 吉記』養和元年4月10日条
  3. ^ 石田吉貞『藤原定家の研究』(文華堂銀行研究社1957年
  4. ^ 『明月記』正治元年4月19日条。定家が養育していた保盛の子を保教とする説もある。
  5. ^ 『明月記』嘉禄元年10月28日条
  6. ^ 『明月記』天福元年9月28日条
  7. ^ 日下、1995年

参考文献

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  • 日下力「後栄の平氏-軍記物語成立期の歴史状況-」(初出:『文学』第6巻第3号、1995年7月)(所収:佐伯真一、小秋元段編『日本文学研究論文集成14 平家物語・太平記』1999年若草書房
  • 高橋典幸「『明月記』寛喜二年秋記紙背の研究」(「明月記研究 記録と文学」6号、2001年
  • 明月記研究会編「『明月記』(寛喜二年八月)を読む」(「明月記研究 記録と文学」7号、2002年

関連項目

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