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平井昌平

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
平井 昌平
生誕 1897年2月16日
日本の旗 日本 山梨県大月市
死没 (1954-04-03) 1954年4月3日(57歳没)
広島県呉市
所属組織  大日本帝国海軍
軍歴 1918年 - 1945年
最終階級 海軍少将
除隊後 通訳
墓所 山梨県大月市
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平井 昌平1897年明治30年〉2月16日 - 1957年昭和29年〉4月3日)は、日本海軍軍人海軍兵学校46期[1][2]。最終階級海軍少将。終戦時は呉海軍工廠総務部長。

経歴

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1897年(明治30年)2月16日に山梨県北都留郡広里村(現:大月市大月町)で、父・保太郎、母・いちの四男として生まれる[3]

真木尋常小学校、広里高等小学校を卒業後、長兄の薦めもあり、東京に出ていた別の兄を頼って麻布中学へ進学する[3]。麻布中学卒業後は、海軍兵学校へ進学し、1918年大正7年)に46期生として卒業する[3]

1927年(昭和2年)には井上良馨元帥の副官となる[3]

1934年(昭和9年)には少佐に昇進しており、軍の特命を受けてアメリカ合衆国へ実情偵察を目的として出張する[3]。2年後、日本に戻った平井は「アメリカ合衆国は先進大国であり、日本が戦争を行っても絶対に勝てない」旨の報告書を大日本帝国海軍上層部に提出している[3]

1940年(昭和15年)、呉海軍工廠へ配属[3]

1945年(昭和20年)8月の終戦時点では少将となり、呉海軍工廠の総務部長となっていた平井は呉港をアメリカ軍に引き渡す戦後処理の陣頭指揮を行った[3]

終戦後は予備役に編入され、ロシア語英語に堪能であったことから、呉市内で通訳として過ごし、1957年(昭和29年)4月3日に亡くなった[3]

平井の墓は、大月市大月町真木の善福寺に建てられている[3]

栄典

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脚注

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  1. ^ 『海軍兵学校出身者名簿』 2巻、1978年、338頁。 
  2. ^ 『海軍兵学校沿革』 巻2, 第1巻、1920年、540頁。 
  3. ^ a b c d e f g h i j 小俣早苗「大月人物伝 平和を愛した郡内唯一の海軍少将 平井昌平」(PDF)『住まいル新聞』第120巻、日本ステンレス工業株式会社、2009年11月、2018年7月5日閲覧 
  4. ^ 『官報』第2132号「叙任及辞令」1919年9月11日。

参考文献

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  • 『心に舞う6 続・大月人物伝』