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常田俊綱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
常田俊綱
改名 道堯(出家号)
別名 図書助、出羽守
主君 武田信玄勝頼真田昌幸
氏族 常田氏
父母 常田隆永
兄弟 俊綱綱富下屋棟吉
養子:永則
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常田 俊綱 / 道堯(ときだ としつな / どうきょう、生没年不詳 )は、戦国時代の武将で、武田家部将・真田弾正忠幸隆の弟である常田隆永の息子。

血縁関係

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俊綱は、前述のように真田幸隆(幸綱)の弟・常田隆永(隆家)の息子である為、幸隆の子・真田信綱真田昌幸ら兄弟とは従兄弟にあたる。また、昌幸の子である真田信之(信幸)や真田信繁(幸村)ら兄弟から見たら俊綱は叔父になる。

生涯

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永禄5年(1562年)、上杉家部将・斎藤憲広が統治する上野国長野原城が武田勢に攻められ落城し、父の隆永は主・武田信玄の命令によりその城代となった。この時、俊綱も父と共に長野原城に在城する。しかし、翌年に長野原城は憲広ら上杉軍の逆襲にあい落城してしまう。その際に俊綱は上杉軍と戦い討死したというが、討ち死にしたのは父・隆永の方であるとも伝わる。

子息がいなかったため、河原隆正の三男・永則を養子に迎えたが、天正3年(1575年)の長篠の戦いで永則が討ち死にしてしまった[1]

脚注

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  1. ^ 丸島和洋『真田一族と家臣団のすべて』KADOKAWA、2016年、118-119頁。 

参考文献

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  • 丸島和洋『真田一族と家臣団のすべて』KADOKAWA、2016年。