市川女寅 (初代)
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初代 市川 女寅(しょだい いちかわ めとら、1853年(嘉永6年) - 1879年(明治12年)5月8日)は明治初期の歌舞伎役者。
経歴
[編集]五代目市川門之助の養子となり市川清吉と名乗る。ほどなく市川女寅と改名。1873年(明治6年)9月、東京村山座での「増補桃山譚」に出演し、以後、若手の有望な女形として活躍するが、1879年4月の市村座「鹿児島銘々伝記」八重垣姫を最後として、同年5月に27歳で没し、その才能を惜しまれた。
死の直後に出された豊原国周作、彫師渡辺弥太郎(彫弥太)の死絵には「気付かぬ内に散りゆく紅葉哉」の辞世の句と「市川女寅 行年廿六歳」の俗名、「深達院女櫻日詣信士」の戒名、墓所「浅草区新谷町田圃幸龍寺」が記されている。
参考文献
[編集]- 野島寿三郎「歌舞伎人名事典」日外アソシエーツ、ISBN 4-8169-0813-7
- 岡本綺堂「明治劇談 ランプの下にて」、岩波文庫、1998年