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巨勢粟持

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

巨勢 粟持(こせ の あわもち、生没年不詳)は、飛鳥時代豪族朝臣官位は直大肆、春宮

記録

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日本書紀』巻第二十九によると、天武天皇14年(685年)9月に、国司・郡司と百姓の消息(様子)を巡察する使者が全国に派遣された。直広参の「巨勢朝臣粟持」は、判官1人、1人を部下として山陰の使者に任命された[1]

同巻第三十によると、持統天皇11年(697年)2月、当麻真人国見東宮大傅路真人跡見春宮大夫とされた際に、直大肆の「巨勢朝臣粟持」が春宮とされたとある[2]

記録に直接粟持の名前が登場するのは以上であるが、同巻第三十によると、持統天皇3年(689年)5月に、即位前の天皇は土師宿禰根麻呂に命じて、草壁皇子の喪を弔問すべく派遣された新羅使の金道那(こんどうな)らに以下のような詔を出した

「昨年、田中朝臣法麻呂らを新羅に派遣し、大行天皇天武天皇)の喪を告げさせた際、新羅側は『新羅が天皇からの勅をうけたまわる身分の人は、元来蘇判(そうかん、新羅の官位17階の第三位)と決めており、今後もそのようにしたいと思う』と申し述べた。そこで法麻呂らは大行天皇の喪を知らせる詔を渡さずに帰国した。前例をいうのなら、かつて孝徳天皇の崩御の際に、巨勢稲持らを遣わして喪を告げた時、翳飡(えいさん、新羅の官位17階の第二位)だった金春秋(のちの武烈王)が勅をたまわったのと矛盾している」[3]

この時現れる、新羅に派遣された「巨勢稲持」とは、欽明天皇元年(540年)9月5日条に登場する許勢稲持とは年代的に見て別人であり、元の史料には「巨勢禾持」と表記してあり、「巨勢粟持」であったのを、『書紀』の編纂者が誤読したのではないか、とする説がある[4]

官歴

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六国史』による。

脚注

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  1. ^ 『日本書紀』天武天皇下 14年9月15日条
  2. ^ 『日本書紀』持統天皇11年2月28日条
  3. ^ 『日本書紀』持統天皇3年5月22日条
  4. ^ 『日本書紀』(五)p253注五、岩波文庫

参考文献

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関連項目

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