左渓玄朗
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玄朗 | |
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咸亨4年 - 天宝13載9月19日 (673年 - 754年10月9日) | |
諡号 | 明覚尊者 |
生地 | 婺州烏傷県 |
宗派 | 天台宗 |
寺院 | 左渓山 |
師 | 慧威 |
弟子 | 湛然 |
著作 | 『法華経科文』 |
左渓玄朗(さけい げんろう)は、中国唐代の天台宗の僧侶。字は慧明、左渓と号した。慧威の弟子で、湛然の師。天台宗の第5祖。
生涯
[編集]俗姓は傅氏で、傅大士の6世の子孫に当たる。婺州烏傷県(浙江省金華市東陽市)の人。9歳で出家し、如意元年(692年)に得度した。その後、慧威の下で天台宗義を学んだ。その他、観法は恭禅師から学び、儒・道二教にも通暁した。広範な知識を身につけはしたが、最終的には、天台止観の実践的な教法に専心するに決した。
生まれ故郷の婺州で、浦陽県(浙江省金華市浦江県)に在る左渓山に入山し、以後30年余の間、山居を続けた。開元16年(728年)、婺州刺史の招致に応じて州城に住したこともあったが、自らの病いを理由に帰山した後は、再び山を出ることは無かった。一時、同門の永嘉玄覚を左渓に招こうとしたが、玄覚は、宗教的実践に街巷と山中の別なし、と弁じて謝絶した。玄覚の著書『永嘉集』には、玄朗と玄覚の間の書簡集を収録している。
天宝13載(754年)9月19日示寂。世寿82、法臘61。玄朗の弟子からは、天台中興と称せられる湛然が出ている。また、法融らの僧が、新羅に天台の教法を伝えている。
著書
[編集]- 『法華経科文』2巻
伝記資料
[編集]- 『宋高僧伝』巻26
参考文献
[編集]- 長倉信祐「左渓玄朗における初期禅宗諸師との交渉:李華の『故左渓大師碑』を中心に」(『仏教文化学会紀要』17、2008年)
師:慧威 | 天台宗(中国) | 弟子:湛然 |