工藤寛得
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工藤 寛得(くどう かんとく、1849年1月11日(嘉永元年12月17日[1][2])- 1911年(明治44年)12月17日[3])は、明治時代の政治家。貴族院多額納税者議員。幼名は六太郎[4]。
経歴
[編集]陸奥国岩手郡大更村(岩手県北岩手郡大更村、西根村、西根町を経て現八幡平市大更)で[4]、工藤織人の長男として生まれる[1]。生家は古くから林業や商業などで財を成した[4]。藩校作人館を経て、江戸に出て安井息軒の門に学び[4]、帰郷後の1879年(明治12年)北岩手郡会議員に当選する[3]。自由民権運動に際しては多くの資金援助を行った[4]。ほか、北岩手郡各村連合会議員[3]、岩手県会議員、岩手県農工銀行発起人などを歴任した[4]。
1890年(明治23年)岩手県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年9月29日[5]から翌年の6月12日[6]まで在任[3]。1911年(明治44年)には直接国税4140円を納税する県下一の大地主となり、郷学校の設立、道路や橋梁の改修など地方振興に尽力した[4]。大更八坂神社の境内に顕彰碑がある[4]。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 人事興信所編『人事興信録 第3版』人事興信所、1911年。
- 衆議院、参議院 編『議会制度七十年史 第1』大蔵省印刷局、1960年 。
- 竹内理三ほか 編纂『岩手県姓氏歴史人物大辞典』角川日本姓氏歴史人物大辞典3、角川書店、1998年。ISBN 4040020308。
- 『岩手人名辞典』(財)新渡戸基金、2009年。