工藤千博
工藤 千博 | |
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生誕 | 1947年8月6日 |
出身地 |
日本・長野県小県郡丸子町 (現上田市) |
死没 | 2009年10月9日(62歳没) |
学歴 |
桐朋学園大学中退 インディアナ大学卒業 |
ジャンル | クラシック |
職業 | ヴァイオリニスト |
担当楽器 | ヴァイオリン |
活動期間 | 1963年 - 2009年 |
工藤 千博(くどう ちひろ、男性、1947年8月6日 - 2009年10月9日)は、日本のヴァイオリニストである。妻は同じくヴァイオリニストの小栗まち絵である。長野県小県郡丸子町(現上田市)生まれ。
経歴
[編集]桐朋時代
[編集]1963年、桐朋女子高等学校音楽科(音楽科は男女共学)に入学し、鈴木共子に師事する。1965年、高校3年生の時、第19回全日本学生音楽コンクール東京大会高校の部で第1位を受賞した。1966年、桐朋学園大学に入学、1970年、文化放送音楽賞を受賞。
アメリカ留学
[編集]1971年、桐朋学園大学を中退し、インディアナ大学に留学、ジョーゼフ・ギンゴールド、フランコ・グッリに師事した。1973年、ローザンヌ・エンロー賞を受賞。1974年、小栗まち絵らとインターナショナル弦楽四重奏団を結成し、1975年、インディアナ大学を卒業、1976年、エヴィアン国際室内楽コンクールで第1位、1977年、インターナショナル・クヮルテット・コンクールで第1位、ミュンヘン国際音楽コンクール室内楽部門で第3位を受賞した。
演奏活動
[編集]アメリカ時代
[編集]1976年、インディアナ大学サウスベンド校音楽部助教授に就任、1980年、ブラウン大学レジデンス・アーティストとなった。
帰国後
[編集]京都市交響楽団のコンサートマスターに就任し、2006年3月まで務めた。
2009年10月9日、胃がんのため死去。62歳没[1]。2010年5月9日、晩年を過ごした大阪府豊中市のアクア文化ホールにて、「工藤千博追悼演奏会」が行われた[2]。
教授活動
[編集]全日本学生音楽コンクールの小学生部門1位を1999年から5年連続で門下生から輩出するなど、妻の小栗まち絵とともに多数の優秀な門下生を輩出しており、工藤は自らを「バイオリンの小児科」と称した[3]。門下には、神尾真由子、長原幸太、大岡仁、太田雅音、松尾依里佳らがいる。
脚注
[編集]- ^ “工藤千博氏死去 バイオリニスト”. 47NEWS. 共同通信 (全国新聞ネット). (2009年10月9日)
- ^ “工藤千博追悼演奏会”. Michiyoshi Inoue Official Website (2010年5月9日). 2016年7月3日閲覧。
- ^ 出水奈美、「工藤千博さん:バイオリニスト、元京都市交響楽団コンサートマスター:胃がんのため10月9日死去・62歳」 『毎日新聞』 2009年12月9日、13版、26面。
出典
[編集]- 『信州・ふるさとの歌 歌声は山なみ遥か』 銀河書房、1993年