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工藤則勝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

工藤 則勝(くどう のりかつ、1847年6月29日弘化4年5月17日[1]) - 1916年大正5年)1月11日[2])は、明治時代の司法官大審院検事

経歴

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工藤勇蔵の長男として陸奥弘前(現青森県弘前市)に生まれる[1]。弘前藩藩校稽古館で学ぶ[2]1871年(明治4年)司法省に奉職し検事となり、1878年(明治11年)判事に転じる[1]1880年(明治13年)岩手重罪裁判長兼控訴院評定官となり、1889年(明治22年)宇都宮予審裁判所長、1892年(明治25年)東京地方裁判所検事正、1898年(明治31年)函館控訴院検事長を経て[1]1903年(明治36年)大審院検事に進んだ[2]

親族

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脚注

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  1. ^ a b c d 人事興信所 1903, 681頁.
  2. ^ a b c 上田ほか 2001, 677頁.
  3. ^ 人事興信所 1915, く10頁.

参考文献

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  • 人事興信所 編『人事興信録 初版』人事興信所、1903年https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/779810 
  • 人事興信所 編『人事興信録 第4版』人事興信所、1915年https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1703995 
  • 上田正昭ほか 監修『講談社日本人名大辞典』講談社、2001年。ISBN 4062108496