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工藤光泰

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
工藤光泰
時代 鎌倉時代
生誕 不明
死没 不明
別名 光長
幕府 鎌倉幕府小侍所所司
主君 北条時頼時宗貞時
氏族 奥州工藤氏
父母 父:工藤助光(資光)[1]
頼光
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工藤 光泰(くどう みつやす)は、鎌倉時代中期の武士北条氏得宗家被官である御内人

光泰以降も頼光-宗光-貞光(貞光は御内侍所)[1]と得宗家当主に仕えた。また、その名乗りから得宗の偏諱を受けた様子が窺え[2](詳細は北条氏#北条氏による一字付与についてを参照)、光泰も北条泰時存命時には元服を済ませている。

北条時頼時宗貞時に仕えた。建長3年(1251年)、時頼が仏像鋳造供養を催した際、奉行人に命ぜられる。同年、若宮別当へ時頼の書状を届けた。翌4年(1252年)、法華堂で催された仏事の奉行を務めた。正嘉元年(1257年)、勝長寿院造営に際して雑掌に任じられる。

文応元年(1260年)、平岡実俊と入れ替わりに小侍所所司へ就任、実俊の復帰後も光泰は実俊と共に引き続きその役目を務めている。儀式に際し北条時輔北条宗頼と共に馬の牽引を行った事績も見られる。時頼の使者としての活動が多かったためか、弘長3年11月22日1263年12月24日)の北条時頼臨終の際、最後の看病を許された得宗被官7人の内の一人に上げられている。

脚注

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  1. ^ a b 今野慶信 著「藤原南家武智麿四男乙麻呂流鎌倉御家人の系図」、峰岸純夫; 入間田宣夫; 白根靖大 編『中世武家系図の史料論』 上、高志書院、2007年。ISBN 978-4-86215-029-5 
  2. ^ 紺戸淳「武家社会における加冠と一字付与の政治性について」『中央史学』2号、1979年。 

参考文献

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  • 北条氏研究会 編『北条氏系譜人名辞典』新人物往来社、2001年。 
  • 佐藤進一『鎌倉幕府控訴制度の研究』畝傍書房、1943年。