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工藤修

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
工藤 修
空母「加賀」勤務時代の工藤。(1938年)
生誕 1915年
日本の旗 日本 大分県
死没 1942年3月3日
オーストラリアの旗 オーストラリア ブルーム
所属組織 日本海軍航空隊
軍歴 1931年 - 1942年
最終階級 飛曹長
特務中尉(死後特進)
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工藤 修(くどう おさむ、1915年 - 1942年3月3日)は、日本海軍軍人海軍航空隊戦闘機搭乗員第二次世界大戦中には撃墜王の1人としてその名を知られた。公式の撃墜記録は7機。最終階級は飛曹長、戦死後2階級特進で飛行特務中尉[1]

略歴

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1931年(昭和6年)6月1日、飛行予科練習生(のちに乙種と呼ばれる)2期生として入隊。同期生に小泉藤一東山市郎ら。1935年(昭和10年)4月に飛行練習生課程を卒業、大村海軍航空隊に配備された。

昭和12年7月、第十三航空隊に配属され、上海公大飛行場に配置された。9月19日和田鉄二郎少佐指揮する爆撃隊(九六式艦上爆撃機18機)、制空隊(九六式艦上戦闘機12機)で第1次南京空襲が敢行され、工藤は菅波政治中尉の第2小隊2番機として参加。カーチス・ホークⅢ英語版(新ホーク)2機と遭遇するも、遁走し撃墜には至らなかった。その後、急降下攻撃して来た新ホーク1機に反撃し不確実撃墜。続いて新ホーク1機を南京南西方の飛行場に追い詰め撃墜(搭乗員はパラシュートで脱出)[2]、初撃墜を記録した。しかし自らも被弾し、帰途で揚子江に着水、救助された[1]。11月、本土に帰還。

1938年(昭和13年)1月、加賀戦闘機隊に配属。4月以降、華中・華南へ艦爆隊の掩護として従事。4月13日、広東省広州天河白雲飛行場空爆で艦爆隊の護衛として出撃。この時、蝶野仁郎一空曹機を襲撃しようとした李煜榮操縦のグロスター グラディエーター2910号機(この直後、加勢した黄広慶操縦の2917号機の車輪と接触し墜落)に銃撃を加えたとの記述もあるが[3]、この時工藤は艦戦隊指揮官だった手島秀雄大尉の発動機不調で2番機の磯崎千利二空曹とともに引き返したため、空戦には参加しておらず[4]近藤政市一空曹と混同したものと思われる。同日午後、従化飛行場爆撃へ手島大尉の2番機として再び出撃したが、会敵しなかった[4]

8月30日、南雄攻撃に手島大尉の2番機として参加、南雄飛行場に駐留していた中国空軍第3大隊第32中隊(大隊長呉汝鎏中国語版、中隊長朱嘉勲)[5][6]グロスター グラディエーター9機と交戦、うち2機を撃墜したが、手島大尉も戦死した[1]。年末、赤城戦闘機隊に転属。その後百里原海軍航空隊(宗雪新之助大佐)、空曹長に昇進[1]

1941年(昭和16年)9月、第三航空隊亀井凱夫大佐)戦闘機隊新設に伴い同分隊士となる。同隊には、第十三航空隊所属当時僚機だった赤松貞明も転属した。12月8日にルソン島攻撃に参加するも、途中で故障のため引き返す[1]12月10日にルソン島再攻撃に参加し、共同撃墜9機[1]

1942年3月3日、オーストラリア・ブルームへの空襲英語版の中で撃墜され戦死した。工藤を撃墜したのは、オランダ領東インド陸軍航空隊英語版(ML-KNIL)のガス・ウィンケル英語版中尉が搭乗する、7.99mm機関銃を搭載したロッキード・ロードスターであったという。

戦死後、連合艦隊司令長官より全軍布告で戦死後2階級特進[1]

出典

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  1. ^ a b c d e f g 秦,伊沢 2011, p. 217.
  2. ^ 第13空機密第47号の7 南京空襲戦闘詳報(其の1) [自9月19日至9月25日南京空襲部隊として実施せしもの] 第13航空隊(1)」 アジア歴史資料センター Ref.C14120304100 
  3. ^ Raymond Cheung (2015). Aces of the Republic of China Air Force. Osprey Publishing. p. 65. ISBN 978-1-4728-0561-4 
  4. ^ a b 戦闘詳報(南支第7次作戦) 軍艦加賀 自昭和13年4月3日至昭和13年4月21日(2)」 アジア歴史資料センター Ref.C14120556600 
  5. ^ 百战荣归“飞将军”——融安板榄籍飞行员韦鼎烈、韦鼎峙抗日空战事略” (中国語). 柳州档案局. 2018年2月19日閲覧。
  6. ^ 抗战飞行员吴汝鎏” (中国語). 广州文史. 2018年2月19日閲覧。

参考文献

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