川瀬六郎左衛門
川瀬 六郎左衛門(かわせ ろくろうざえもん、天正2年(1574年) – 没年不詳)は、安土桃山時代の武士。紀伊日高郡志賀村の土豪。のち浅野幸長の家来。
来歴
[編集]幼少期
[編集]天正2年(1574年)川瀬七郎次郎の子として、紀伊日高郡志賀村に生まれる。父・川瀬七郎次郎は、はじめ紀伊南部の湯川氏の家臣であったが、天正3年(1575年)父・七郎次郎は、湯川中之島の土豪・湊惣左衛門と覇を争い、敗れて鈴木孫一を頼り海部郡雑賀に潜居した。雑賀で鉄砲術を習得し、寄騎となって鉄砲衆を従えるが天正4年(1576年)石山合戦で討死した。父討死の時、六郎左衛門は年歯幼少であったため、伯父・小畑六郎右衛門のもとで撫育され、七郎次郎の子として平素武芸鍛錬を怠らず 長じては文武に才を顕した。
大坂夏の陣以降
[編集]慶長20年(1615年)4月、大坂夏の陣に際して浅野幸長の家臣・湊惣左衛門[1]は、紀伊国和歌山藩(紀州藩)浅野幸長の間隙を突かんと謀叛(紀州一揆)を企て、六郎左衛門にも豊臣方に味方すれば所領は望み次第との朱印状を以ってその謀叛に加勢することを促すが、湊惣左衛門の平素の言動から、六郎左衛門は彼の説く意中に欺瞞を見抜いて誘いを拒絶。かえって浅野幸長に忠義することを誓う[2]。しかして、謀叛の鎮圧に尽力し、平夷ののち浅野幸長は六郎左衛門の功を賞し采地を給した。六郎左衛門は、その人柄、温厚にして時に熱くさらに義を以って尊ぶという。のち日高郡小杭に隠居するが、人望厚く推されてまた地元の開墾に励んだ。
子孫
[編集]子孫は代々「六郎左衛門」の名を襲名して日高郡志賀村の庄屋となり幕末に至る。
明治時代の当主・川瀬六郎左衛門の娘、幹枝(みきえ)は、日本福音ルーテル教会における日本人最初の牧師・山内量平に嫁いだが、明治43年(1910年)7月2日、幹枝の母・川瀬始代の死亡により、妻の実家が無嗣断絶するのを憂いた山内量平のはからいにより、量平の弟子にあたる入江徳太郎を始代(もとよ)の選定家督相続人として名跡養子にして川瀬姓を継がせた[3]。