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川崎定盈

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川崎 定盈(かわさき さだみつ、 享保14年(1729年[1]) - 安永7年4月18日1778年5月17日[2])は、江戸幕府旗本代官。通称、市之進[2]

農政家や代官として活躍した川崎定孝の子で、母は佐藤氏の娘[2]。妻は辻六郎左衛門富森の娘で、後妻は本多清兵衛正章の娘[2]。同じく代官となった川崎定安の父[2]

略歴

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宝暦4年(1755年)11月25日、将軍徳川家重に初の御目見得をする[2][3]

明和元年(1765年)閏12月14日から父・定孝の職務の見習を始める。同4年(1767年)4月21日、石見国銀山支配を掌る第32代目代官となり、新規に150俵を給される[2][3][4]。父・平右衛門定孝の銀山救済策を受け継ぎ、「貸付利倍」の法をとって銀山の自力回復を計る[3][5]

同6年(1769年)、石見銀山支配兼帯[6]のまま、奥州の半田代官(桑折代官)を務める[3][7]

安永7年(1778年)4月18日、死去。享年50。法名は常然で、戒名は「青岳院殿真相常然居士」。長善寺(現・東京都新宿区四谷)に葬られる[2][3][8]

脚注

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  1. ^ 府中郷土の森博物館 『代官 川崎平右衛門』ブックレット10、67頁。
  2. ^ a b c d e f g h 『新訂 寛政重修諸家譜』第二十二、217-218頁。
  3. ^ a b c d e 「川崎市之進定盈」渡辺紀彦『代官川崎平右衛門の事績』、135-136頁。
  4. ^ 渡辺紀彦『代官川崎平右衛門の事績』、159頁。村上直『江戸幕府の代官群像』同成社、107-108頁。「川崎市之進(定盈)」村上直校訂『江戸幕府郡代代官史料集』 近藤出版社、408頁。
  5. ^ 「平右衛門の施策 - 代官所主導」府中郷土の森博物館 『代官 川崎平右衛門』ブックレット10、55頁。
  6. ^ 銀山の地方支配は除く。
  7. ^ 渡辺紀彦『代官川崎平右衛門の事績』、136頁、155頁、160頁、162頁。「石見銀山と川崎3代」府中郷土の森博物館 『代官 川崎平右衛門』ブックレット10、59頁。
  8. ^ 「川崎市之進(定盈)」村上直校訂『江戸幕府郡代代官史料集』 近藤出版社、408頁。

参考文献

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