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川崎定安

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

川崎 定安(かわさき さだやす、 宝暦8年(1758年[1] - 文化10年3月4日1813年4月4日))は、江戸幕府旗本代官通称平右衛門、幼名・辰之助川崎定孝の孫で、川崎定盈の子。妻は、徳川家治側室蓮光院の侍女某氏の養女[2][3]

略歴

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安永2年(1773年)3月25日、徳川家治に初めて拝謁する。時に16歳[2][3]

同7年(1778年)2月13日より父・定盈の仕事の見習を務める。7月8日に家督を継いで代官となり、石見国銀山の支配(第37代目代官)を兼ねる。この時、俸禄150俵を賜わり、翌日8日に名を平右衛門に改める[2][3][4][5][6]

同9年(1780年)正月28日、居宅を火事で焼失したことで出仕をはばかり謹慎するが、2月5日に許される[2][3]

天明7年(1787年)10月晦日、銀山支配から離れる[2][4][5][7]。石見の支配を離れた後、亡くなるまで代官として支配地を五ヵ所にわたって転任する[5]

同8年(1788年)2月5日、税の延滞を理由に出仕を止められた上、預けられた御料所のうち2万石を減ぜられる。同年3月26日に許される[2]

寛政5年(1793年)12月27日、支配地が1万石増加、甲州に場所替となる[6]

文化元年(1804年)8月23日、場所替えで支配地が1万石増加となる[4][6]

文化10年(1813年)3月4日、病死。江戸四谷にある長善寺に葬られる。戒名は「霊耀院殿聖山義賢居士」[3][6]

脚注

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  1. ^ 「川崎平右衛門定孝関係略系図」府中郷土の森博物館 『代官 川崎平右衛門』ブックレット10、67頁。
  2. ^ a b c d e f 『新訂 寛政重修諸家譜』第二十二、218頁。
  3. ^ a b c d e 「川崎平右衛門定安」渡辺紀彦『代官川崎平右衛門の事績』、144頁。
  4. ^ a b c 『寛政譜以降旗本家百科事典』第2巻、886-887頁。
  5. ^ a b c 「石見銀山と川崎3代」府中郷土の森博物館 『代官 川崎平右衛門』ブックレット10、59頁。
  6. ^ a b c d 「川崎辰之助(定安)」村上直校訂 『江戸幕府郡代代官史料集』 近藤出版社、411-412頁。
  7. ^ 渡辺紀彦『代官川崎平右衛門の事績』、136頁、144頁。

参考文献

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