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川崎大映劇場

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
川崎大映劇場
Kawasaki Daiei
川崎大映劇場の外観。写真右上は超短波無線のアナウンス室である。[1]
地図
情報
正式名称 川崎大映劇場
完成 1947年
開館 1947年
閉館 1971年
収容人員 455[2]
用途 大映が製作・配給する映画の興行
運営 金美館本部 ⇒ 美須合名
所在地 神奈川県川崎市(現:川崎区)古川通30番地
最寄駅 国鉄川崎駅京浜川崎駅
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川崎大映劇場(かわさきだいえいげきじょう)は、かつて存在した日本の映画館である。川崎大映(かわさきだいえい)が正式名称だった時期もある[3]大映の直営館ではなく、美須鐄金美館本部(のちのカワサキ・ミス、現在のチッタ エンタテイメント)が経営し、大映作品を上映した。

沿革

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略歴・概要

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美須鐄金美館本部(のちのカワサキ・ミス、現在のチッタ エンタテイメント)が、第二次世界大戦後に復興した「川崎映画街」に、「川崎大映劇場」として1947年(昭和22年)末までに完成、翌1948年(昭和23年)の正月興行を行った[4]。当時の同映画街には、大映作品を上映する本館のほか、松竹作品を上映する川崎銀星座(現存せず、以下同)、東宝作品を上映する川崎第一東宝劇場川崎映画劇場(のちの川崎スカイ劇場)、川崎オデオン座の映画館5館と、実演の川崎花月劇場があり、いずれも同社が経営した[4]

1949年(昭和24年)4月18日、金美館本部は従来の個人事業から会社組織化され、美須合名会社となる。同年、川崎映画街は9館に増強される。所在地は川崎市古川通30番地である[3][5]。東西の通りを挟む川崎映画街の中央、川崎銀星座、川崎映画劇場と並んで、通りの南側に位置した[6]

その後、時期は不明であるが、破産を目前とした大映が最後の配給作品を公開した1971年(昭和46年)11月20日の前後、1970年代のある時点で、閉館する。

現在、同館の跡地には、チッタ エンタテイメント、およびその子会社チネチッタが経営するシネマコンプレックスチネチッタ」を収容するラ チッタデッラが建っている[6]

脚注

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  1. ^ 『映画館のある風景 昭和30年代盛り場風土記・関東編』 キネマ旬報社、2010年
  2. ^ 総覧[1955], p.21
  3. ^ a b 年鑑[1952], p.442.
  4. ^ a b 娯楽エリアの成立と商店街の発展 (PDF)二宮公雄川崎市、2010年11月5日閲覧。
  5. ^ 年鑑[1956], p.20.
  6. ^ a b かわさき区の宝物シート 銀映会 (川崎映画街) (PDF) 、川崎市、2010年11月5日閲覧。

参考文献

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  • 『映画年鑑 1952』、時事映画通信社、1952年
  • 『全国映画館総覧 1955』、時事映画通信社、1955年
  • 『映画年鑑 1956』、時事映画通信社、1956年

関連項目

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外部リンク

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画像外部リンク
川崎大映劇場
1963年撮影(『対決』『手討』公開時)

座標: 北緯35度31分41秒 東経139度41分52.7秒 / 北緯35.52806度 東経139.697972度 / 35.52806; 139.697972