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川勝広英

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
川勝広英
時代 江戸時代前期 - 江戸時代中期
生誕 寛文5年(1665年
死没 享保18年7月22日1733年8月31日
別名 初隆英、八郎左衛門、勘兵衛(通称)
戒名 徳仁(法名)
墓所 東京都港区赤坂の法安寺
幕府 江戸幕府 旗本
主君 徳川綱吉家宣家継吉宗
氏族 川勝氏
父母 父:川勝隆房、母:馬淵氏
養父:広宣
兄弟 隆成隆明広英
女子(岡田由重室)、某
正室:嶋正信の娘、継室:久世広賢の娘
広達(婿養子。野村為政の三男)、
某(彌三郎)、某(孫三郎)、
女子(伴栄宣室)、女子(川勝広達室)
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川勝 広英(かわかつ ひろひで)は、江戸時代前期から中期の旗本。知氏系重氏流川勝家の4代当主。

生涯

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寛文5年(1665年)、川勝隆房の三男として江戸に生まれ、後に川勝広宣の末期養子となった。元禄3年(1690年)8月6日、義父広宣の死去により、その家督(下野内300石、蔵米400俵)を継ぎ、同年10月23日に初めて将軍徳川綱吉に謁見した。

元禄10年(1697年)7月26日、蔵米を改めて、常陸国新治郡筑波郡河内郡内において400石を給わり、全てで下野常陸内700石を知行した[1]。元禄11年(1698年)3月19日、書院番に列し、元禄14年(1701年)5月26日に桐間番に移り、同年8月7日に書院番に戻った。

享保18年(1733年)7月22日、69歳で没した。家督は婿養子の広達が継いだ。

脚注

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  1. ^ 知行地から収納する年貢米が収入となる知行取りに、広英の代より改められた。

参考文献

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  • 『寛政重修諸家譜(第18)新訂』続群書類従完成会、1981年


先代
広宣
川勝知氏系重氏流
4代:1690年 - 1733年
次代
広達