コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

川勝広能

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
川勝広能
時代 江戸時代前期 - 江戸時代中期
生誕 万治3年(1660年
死没 享保5年4月3日1720年5月9日
別名 太郎右衛門、藤兵衛(通称
戒名 道珠(法名)
墓所 東京都港区赤坂の法安寺
幕府 江戸幕府 旗本
主君 徳川家宣家継吉宗
氏族 川勝氏
父母 父:川勝広恒、母:佐脇安雅の娘
兄弟 広能川勝広頼|広頼、女子(三浦某室)、
正室:窪田正俊の娘
継室:山角正勝の娘
広良(婿養子。鈴木重頼の二男)、
女子(広良室)
テンプレートを表示

川勝 広能(かわかつ ひろよし)は、江戸時代前期から中期の甲府藩士、旗本。広恒流川勝家の2代当主。

生涯

[編集]

万治3年(1660年)、川勝広恒の嫡男として甲斐に生まれた。櫻田の館において徳川家宣に仕えた。中奥に仕え、小十人頭を経て先手筒頭を務めた。宝永元年(1704年)、幕府将軍を継ぐこととなった家宣が江戸城西の丸に入るのに従い、宝永2年(1705年)4月9日に西城桐間番となった。宝永3年(1706年)4月、蔵米を領地に改められ、武蔵国葛飾郡下総国岡田郡常陸国筑波郡内に550石を知行した。それまでの蔵米取りから知行取りに、広能の代で改まった。

宝永6年(1709年)家宣の将軍就任に伴い幕臣となり、広恒流川勝家は旗本家として継続した。正徳3年(1713年)5月18日、この番を辞して小姓組に転じた。享保5年(1720年)4月3日、61歳で没した。家督は婿養子の広良が継いだ。


参考文献

[編集]
  • 『寛政重修諸家譜(第18)新訂』続群書類従完成会、1981年
先代
広恒
川勝知氏系広恒流
2代:1678年 - 1720年
次代
広良