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川勝広氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
川勝広氏
時代 江戸時代前期
生誕 不明
死没 貞享4年7月16日1687年8月23日
別名 初広明、又兵衛、主水(通称)
戒名 義圓(法名)
墓所 東京都台東区上野公園の護国寺
幕府 江戸幕府 旗本
主君 徳川家光家綱綱吉
氏族 川勝氏
父母 父:川勝広綱、母:藤掛永勝の娘
兄弟 広尚広氏広憲
養女(西洞院時直の娘、藤堂嘉正室)、
女子(佐久間信俊室)
正室:織田信昌の養女
広成憲隆田代元貞
女子(森川長要室)、女子(溝口常勝室)
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川勝 広氏(かわかつ ひろうじ)は、江戸時代前期の旗本。広氏流川勝家の初代当主。

生涯

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川勝広綱の二男として江戸に生まれた。寛永16年(1639年)2月5日、初めて将軍徳川家光に拝謁した。寛永17年(1640年)3月19日、召されて書院番に列し、寛永19年(1642年)12月10日に蔵米300俵を給わって旗本家を興した。子孫の家紋は桐に鳳凰、釘抜、五三桐。通し字は「」。

慶安3年(1650年)9月3日、西城から本城勤めとなった。寛文元年(1661年)12月10日、甥の川勝広有より丹波国氷上郡内に700石の分知を受け[1]、先の蔵米は返上した。後に番を辞して、小普請となった。

貞享4年(1687年)7月16日に没した。没年齢不詳。家督は嫡男の広成が継いだ。


脚注

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  1. ^ 広有が家督を継ぐ際、叔父川勝広氏に700石、叔父川勝広憲に300石を分知した。

参考文献

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  • 『寛政重修諸家譜(第18)新訂』続群書類従完成会、1981年
  • 『川勝家文書』東京大学出版会、日本史籍協会叢書57、1984年

関連項目

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先代
広綱
川勝継氏系広氏流
初代:1640年 - 1687年
次代
広成