川勝広氏
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時代 | 江戸時代前期 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 貞享4年7月16日(1687年8月23日) |
別名 | 初広明、又兵衛、主水(通称) |
戒名 | 義圓(法名) |
墓所 | 東京都台東区上野公園の護国寺 |
幕府 | 江戸幕府 旗本 |
主君 | 徳川家光→家綱→綱吉 |
氏族 | 川勝氏 |
父母 | 父:川勝広綱、母:藤掛永勝の娘 |
兄弟 |
広尚、広氏、広憲、 養女(西洞院時直の娘、藤堂嘉正室)、 女子(佐久間信俊室) |
妻 | 正室:織田信昌の養女 |
子 |
広成、憲隆、田代元貞、 女子(森川長要室)、女子(溝口常勝室) |
川勝 広氏(かわかつ ひろうじ)は、江戸時代前期の旗本。広氏流川勝家の初代当主。
生涯
[編集]川勝広綱の二男として江戸に生まれた。寛永16年(1639年)2月5日、初めて将軍徳川家光に拝謁した。寛永17年(1640年)3月19日、召されて書院番に列し、寛永19年(1642年)12月10日に蔵米300俵を給わって旗本家を興した。子孫の家紋は桐に鳳凰、釘抜、五三桐。通し字は「広」。
慶安3年(1650年)9月3日、西城から本城勤めとなった。寛文元年(1661年)12月10日、甥の川勝広有より丹波国氷上郡内に700石の分知を受け[1]、先の蔵米は返上した。後に番を辞して、小普請となった。
貞享4年(1687年)7月16日に没した。没年齢不詳。家督は嫡男の広成が継いだ。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 『寛政重修諸家譜(第18)新訂』続群書類従完成会、1981年
- 『川勝家文書』東京大学出版会、日本史籍協会叢書57、1984年
関連項目
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