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嶋谷徳三郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

嶋谷 徳三郎島谷 徳三郎[1]、しまたに とくさぶろう、1867年12月2日慶応3年11月7日[2][3]) - 1928年昭和3年)5月20日[4])は、日本実業家資産家[5]、山口県多額納税[6][7]。嶋谷汽船株式会社の創立者で社長を務めた[1][7][8][9][10]。族籍は山口県平民[1][7]

来歴・人物

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周防国玖珂郡由宇村(現・山口県岩国市)に、廻船業を営む徳右衛門の長男として生まれる[1][2][7][8][11]。若い頃から父の下で家業を習得する[2]

1889年、父・徳右衛門が亡くなり、徳三郎は22歳で家督を相続して家業を継承した[2][3][11]。徳三郎は1895年に、それまで保有していた和式帆船を売却して、日本郵船から中古の蒸気船「浦門丸」(元はイギリス製で土佐藩が購入)を購入する[12]。当時、由宇の廻船業者はすべて和式帆船を使い、高額な蒸気船の導入をためらっていた中で、徳三郎は親族の反対を押し切って実行した[12]。速度や運行の安定性に優れた蒸気船は大成功を収め、由宇の同業者は姿を消した[12]

日露戦争(1904年 - 1905年)時には保有する蒸気船3隻のうち2隻が政府に徴用された[13]。この時期に「嶋谷汽船部」を名乗り、1897年からは北前船航路に参入した[13]。北前船でも利益を上げ、1911年までに所有船を増やした[14]。一方、父の代以来廻船と兼業していた投機的な米穀取引をやめ(元は米取引の一環としてその輸送を手がけていた[15])、海運業に事業を集中して、父が開いた福岡県大川町若津(現・大川市)の事務所を1900年に由宇に移転した[16]

「嶋谷汽船部」は1917年5月に株式会社化して「嶋谷汽船株式会社」となる[17][10]。1919年には長男の武次を兵庫県須磨町(現・神戸市須磨区)に移住させ、同年7月には神戸出張所を開設した[10]。1923年7月に自身も須磨[注釈 1]に転居し、嶋谷汽船の本社も神戸市に移転した(神戸出張所は廃止)[10]。1927年の『海運興国史』(神戸栄報社)による1926年末時点所有船舶総トン数では、日本の船主で20位で、個人オーナー企業ではトップだった[18]

一方、1918年には小野造船鉄工所(小野虎助が経営)との共同出資で笠戸島船渠を設立したが、第一次世界大戦後の景気悪化により、1923年8月に会社を解散、ドックの施設はその翌年に大阪鉄工所の所有となった[19]

このほか、周防鉄道常務取締役[1][注釈 2]、小瀬川水力電気、東海汽船[注釈 3]監査役[7][8]など、複数の企業で重役を務めていた。

1928年5月20日に死去した[22]

家族・親族

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嶋谷家
  • 父・徳右衛門[1] - 徳右衛門は、千石船船頭より身を起こし遂に回漕業者として一方に雄飛するに至った[11]。由宇船主の中で頭角を現した徳右衛門は、若くして船主兼米問屋の中尾家に奉公して廻船業務と米の売買を習得した[3]。主家に認められ、1877年頃に、徳右衛門40歳の時に、中尾本家の持船2隻・昌栄丸と昌宝丸を譲り受け、さらに生家の父親所有船若宮丸を継承して所有船3隻の船主となって独立し、「嶋屋」の名称で回船業を始める[3][15]。当初は自らも船に乗り込んで九州産筑後米や肥後米を買い入れ、 神戸に運んで「兵庫米商会所」に持ち込み米の売買取引に参加した[3]筑後川流域の米を仕入れる都合で、福岡県大川町若津に店を構え、家族を由宇に残して常駐した[15]。1889年6月28日死去[23]

脚注

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注釈

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  1. ^ 1920年に神戸市に編入されていた。
  2. ^ 周防鉄道は、由宇駅から日積伊陸(いずれも現・柳井市)を経由して玖珂を結ぶ予定であったが、岩徳線の敷設決定や関東大震災の影響により未成線となり、会社は解散した[20]
  3. ^ 現存する東海汽船とは別の企業(現在の東海汽船がこの名称になったのは、徳三郎没後の1942年[21])。
  4. ^ 『人事興信録』では「ヨシ」とするが[1][7]、嶋谷徹の記述に従う[23]

出典

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  1. ^ a b c d e f g 『人事興信録 第7版』し57頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2019年6月5日閲覧。
  2. ^ a b c d 嶋谷徹 2014, p. 69.
  3. ^ a b c d e 松井邦夫『日本商船・船名考』海文堂、2006年、p.272
  4. ^ 『官報 1928年08月14日』官報 第490号 397頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2023年6月11日閲覧。
  5. ^ 『全国五十万円以上資産家表 時事新報社第三回調査』10頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2019年6月5日閲覧。
  6. ^ 『日本紳士録 第23版』全国多額納税者 山口県之部(大正七年四月一日調)13頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2019年6月5日閲覧。
  7. ^ a b c d e f g h i j 『人事興信録 第6版』し50頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2019年6月5日閲覧。
  8. ^ a b c 『人事興信録 第8版』シ61頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2019年6月5日閲覧。
  9. ^ a b 『豪閥 地方豪族のネットワーク』385-393頁。
  10. ^ a b c d 嶋谷徹 2014, p. 91.
  11. ^ a b c 『大正人名辞典』1848頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2019年6月5日閲覧。
  12. ^ a b c 嶋谷徹 2014, pp. 72–73.
  13. ^ a b 嶋谷徹 2014, pp. 78–81.
  14. ^ 嶋谷徹 2014, pp. 83–84.
  15. ^ a b c 嶋谷徹 2014, p. 57.
  16. ^ 嶋谷徹 2014, pp. 86–87.
  17. ^ 松浦章「嶋谷汽船会社と日本海定期航路」(PDF)『或問』第28号、近代東西言語文化接触研究会・白帝社、2015年、1-14頁。  該当記述は2頁。
  18. ^ 嶋谷徹 2014, pp. 95–97.
  19. ^ 嶋谷徹 2014, pp. 100–101.
  20. ^ 09 日積駅予定地だった所 柳井にっぽん晴れ街道(小瀬上関往還 - 日積地区)2023年6月18日閲覧。
  21. ^ 130年のあゆみ - 東海汽船(2019年)2023年6月18日閲覧。
  22. ^ 嶋谷徹 2014, p. 106.
  23. ^ a b c 嶋谷徹 2014, pp. 62–63.
  24. ^ a b 嶋谷徹 2014, p. 125.
  25. ^ 嶋谷徹 2014, p. 170.
  26. ^ a b c 嶋谷徹 2014, p. 183,192.

参考文献

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  • 『全国五十万円以上資産家表 時事新報社第三回調査』時事新報社、1916年。
  • 東洋新報社編『大正人名辞典』東洋新報社、1917年。
  • 交詢社編『日本紳士録 第23版』交詢社、1919年。
  • 人事興信所編『人事興信録 第6版』人事興信所、1921年。
  • 人事興信所編『人事興信録 第7版』人事興信所、1925年。
  • 人事興信所編『人事興信録 第8版』人事興信所、1928年。
  • 大蔵省印刷局編『官報 1928年08月14日』日本マイクロ写真、1928年。
  • 佐藤朝泰『豪閥 地方豪族のネットワーク』立風書房、2001年。
  • 嶋谷徹 著、嶋谷徹 編『波浪の百余年を航海した嶋谷海運業史』嶋谷徹、2014年12月。  編著者・刊行者は徳三郎の孫(嶋谷勇の子息)。

関連項目

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