崔衡
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崔 衡(さい こう、435年 - 488年)は、北魏の官僚。字は伯玉。本貫は清河郡東武城県。
経歴
[編集]崔寛の長男として生まれ、若くして孝行で知られた。崔浩の書を学んで、その学問を継承した。466年(天安元年)、抜擢されて内秘書中散となり、献文帝の下す詔命や御覧する書を担当して、それらの多くは崔衡の手になるものとなった。崔衡は李沖・李元愷・程駿らを推挙して、当時に称揚された。476年(承明元年)、内都坐令に転じ、訴訟をよくさばいて、孝文帝に賞賛された。478年(太和2年)、武陵公の爵位を嗣ぎ、鎮西将軍の号を受け、給事中に転じた。孝文帝が巡狩すると、崔衡は大都督長史となった。故事を引いて防衛の準備方法を説き、便国利民の策50条あまりを上奏した。鎮西将軍のまま泰州刺史に任じられ、斉郡公に爵位をうつされた。先立って河東郡では飢饉が起こり、反乱が勃発していた。崔衡が河東に赴任すると、漢の龔遂の方法に学んで、農業や養蚕を推奨し、1年のあいだに反乱を終息させた。488年(太和12年)、死去した。享年は54。散騎常侍・左光禄大夫・鎮西将軍・冀州刺史の位を追贈された。諡は恵公といった。
子女
[編集]5人の男子があった。
- 崔敞(長男。字は公世。斉郡公の爵位を嗣ぎ、斉郡侯に降格された。謁者僕射から、平原国の相として出された。済州刺史の楊椿とともに大臣の更迭を訴えて、免官された。宣武帝の初年に鉅鹿郡太守となったが、弟の崔朏が元愉の乱に参加して処刑され、崔敞は黄木軍主の韓文殊にかくまわれた。一家は官爵と財産を奪われたが、ひとり崔敞の妻の李氏は、公主の姪であったため免れた。正光年間に禁錮を解かれ、崔敞は斉郡侯の爵位を戻され、龍驤将軍・中散大夫にの位を受けた。孝昌年間に趙郡太守となり、死去した)
- 崔鍾(字は公禄。奉朝請となった。弟の崔朏が元愉の乱に参加して処刑されると、崔鍾は罪に連座して失脚し、後に原職に復帰した。尚書郎・国子博士・司徒右長史・征北将軍・金紫光禄大夫・冀州大中正を歴任した。兄の崔敞の死後、崔鍾はその財産を奪うために、崔敞の子の崔積ら3人を誣告して、兄の子ではないと主張し、訴訟は連年に及んで、人士に恨まれた。爾朱世隆の下で尚書令となり、退官を願い出ると、その後は官につかなかった)
- 崔朏(学問を好み、文才があった。治書侍御史を経て、京兆王元愉の下で録事参軍となった。元愉の乱に同調して、処刑された)