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崔昂

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

崔 昂(さい こう、508年 - 565年)は、中国北魏末から北斉にかけての官僚政治家は懐遠[1][2][3][4]本貫博陵郡安平県[1][2][5][4]

経歴

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崔孝暐の子として生まれた[3]。7歳のときに父を失い、伯父の崔孝芬に養育されて、「吾が家の千里の駒なり」と評された[1][2][3]。初め元天穆に召されて参軍となった。次いで伏波将軍の号を加えられ、給事中に任じられた。後に中堅将軍の号を加えられ、奉車都尉に転じた。さらに定州刺史高琛の属官をつとめた[4]天平2年(535年)、高澄に召し出されて記室参軍となり、腹心の任を委ねられた[1][2][6]

高澄が輔政の任につくと、崔昂はその下で開府長史となった。この頃、東魏の勲臣の兵客には放埒で不法なふるまいに及ぶ者が多く、特に孫騰司馬子如の一門には甚だしいものがあった。崔昂は高澄の密旨を受けて、不法行為に及ぶ者たちを逮捕したので、都下の風紀は粛然とした。崔昂は尚書左丞に転じ、度支尚書を兼ねた[7][2][8]

天保元年(550年)、北斉が建国されると、崔昂は散騎常侍に転じ、太府卿・大司農卿を兼ねた。横市の濫費314条を奏上して聞き入れられた。また邢卲とともに国初の礼を定め、華陽県男に封じられた。さらに律令の制定を命じられて、薛琡ら43人とともに領軍府で協議して定めた。廷尉卿に転じ、不正な蓄財に対して厳しく処断した[9][10][11]

天保10年(559年)、崔昂は尚書右僕射を兼ね、数日後に正式に右僕射となった。文宣帝が死去すると、僕射の任を解かれ、儀同三司・光禄勲の位を受けた。皇建元年(560年)、太常卿に転じた。河清元年(562年)、御史中丞を兼ねた。従甥の李公統が高帰彦の事件に連座して処刑されると、崔昂は官爵を剥奪された。河清3年(564年)、五兵尚書として復帰し、祠部尚書に転じた[12][10][13]天統元年(565年)6月29日、病が嵩じての遵明里の家で死去した。享年は58。趙州刺史の位を追贈された[14]

家庭

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夫人

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  • 盧修娥
  • 鄭仲華

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  • 崔謀(長男、字は君讃)
  • 崔恪(次男、字は君和)
  • 崔液(三男、字は君洽、後嗣)
  • 崔天師(四男)
  • 崔人師(五男)[14]

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  • 崔氏(長女、鄭思仁の妻)
  • 崔氏(次女、李孝貞の妻)
  • 崔徳儀(三女、盧公順の妻)[14]

脚注

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  1. ^ a b c d 氣賀澤 2021, p. 390.
  2. ^ a b c d e 北斉書 1972, p. 410.
  3. ^ a b c 北史 1974, p. 1179.
  4. ^ a b c 趙 2008, p. 433.
  5. ^ 北史 1974, p. 1159.
  6. ^ 北史 1974, pp. 1179–1180.
  7. ^ 氣賀澤 2021, pp. 390–391.
  8. ^ 北史 1974, pp. 1180–1181.
  9. ^ 氣賀澤 2021, pp. 391–392.
  10. ^ a b 北斉書 1972, p. 411.
  11. ^ 北史 1974, p. 1181.
  12. ^ 氣賀澤 2021, pp. 392–393.
  13. ^ 北史 1974, pp. 1181–1182.
  14. ^ a b c 趙 2008, p. 434.

伝記資料

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  • 北斉書』巻30 列伝第22
  • 北史』巻32 列伝第20
  • 斉故祠部尚書趙州刺史崔公墓誌之銘(崔昂墓誌)

参考文献

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  • 氣賀澤保規『中国史書入門 現代語訳北斉書』勉誠出版、2021年。ISBN 978-4-585-29612-6 
  • 『北斉書』中華書局、1972年。ISBN 7-101-00314-1 
  • 『北史』中華書局、1974年。ISBN 7-101-00318-4 
  • 趙超『漢魏南北朝墓誌彙編』天津古籍出版社、2008年。ISBN 978-7-80696-503-0