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島津陸奥守

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

島津陸奥守(しまづむつのかみ)は、日本の鎌倉時代陸奥国名取郡宮城郡、後の仙台の近辺に住んだと伝えられる武士である。陸奥守は官名で、実の名は不明。薩摩国島津氏との関係も不明である。

解説

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島津陸奥守については同時代的史料がなく、仙台の前史について書いた江戸時代の複数の史書・地誌に記される。短い記述をまとめれば、島津陸奥守は野手口山(大年寺山)にある茂峯城(茂ヶ崎城)に居り[1]、ついで千代城(仙台城)に移り住んだ[2]。文永元年(1264年)に島津陸奥守が天神社の社殿を小俵村(小田原村)の玉崎山中(現在の仙台東照宮がある地)に建てて移したという伝えもあるが[3]、移したのは別の人で島津陸奥守は再造したとする伝えもある[4]。後に彼は陸奥国を去り、対馬国に移った[5]

地誌の一部は、島津氏の後に結城氏が仙台地方に城を構えたことも伝えている。戦国時代には国分氏が一帯を支配したことが確実なのだが、その国分氏の系図は、国分氏が鎌倉時代の初めから、戦国末の国分氏の領国とほぼ同じ地域を代々支配してきたと記す。島津氏・結城氏に関する伝えは、国分氏系図と矛盾するものである。

脚注

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  1. ^ 『残月台本荒萩』巻之一(『仙台叢書』第1巻241頁)。
  2. ^ 『仙台鹿の子』(『仙台市史』第8巻214頁)。『残月台本荒萩』巻之一(『仙台叢書』第1巻241頁)。『封内風土記』巻之一(『仙台叢書封内風土記』復刻版第1巻8頁)。
  3. ^ 『奥羽観跡聞老誌』には「島津某」が移したとある(佐々木慶市「古代中世の仙台地方」248頁)。
  4. ^ 『封内風土記』は佐藤基春が玉手崎に移し、その後に島津陸奥守が再造したという(巻之一、『仙台叢書封内風土記』復刻版第1巻17-18頁)。
  5. ^ 『仙台鹿の子』(『仙台市史』第8巻214頁)。『封内風土記』には「西国に移住」とだけある(巻之一、『仙台叢書封内風土記』復刻版第1巻8頁)。

参考文献

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  • 作者不明『仙台鹿の子』、元禄8年(1695年)頃。仙台市史編纂委員会『仙台市史』第8巻(資料篇1)、仙台市役所、1950年。
  • 田辺希文封内風土記』、明和9年(1772年)。鈴木省三・校正『仙台叢書風内風土記』復刻版第1巻、宝文堂、1975年(初版は仙台叢書刊行会により1893年発行)。
  • 作者不明『残月台本荒萩』巻之一、安永7年(1778年)頃。鈴木省三・編『仙台叢書』第1巻、仙台叢書刊行会、1922年に収録。
  • 佐々木慶市「古代中世の仙台地方」、仙台市史編纂委員会『仙台市史』第3巻(別篇1)、仙台市役所、1950年。