島善鄰
島 善鄰(しま よしちか、1889年8月27日 - 1964年8月7日)は、教育者、農学博士。北海道大学第6代学長。その一生をリンゴの研究と普及に努めリンゴの神様といわれる[1][2][3]。正三位、勲一等瑞宝章を授与。
経歴
[編集]1889年、陸軍軍人の島時中、きち夫婦の5男として広島県広島市に生まれる[4][5]。8歳の時に父が亡くなり岩手県稗貫郡矢沢村高木(現・花巻市)に移る。盛岡中学(現・岩手県立盛岡第一高等学校)を経て1914年、東北帝国大学農科大学(現・北海道大学)を卒業[5]。1916年、星野勇三教授に推挙されて青森県農事試験場の技師となる[6]。当時の青森は褐斑病の発生でリンゴ生産減退の時期であったが、早速減収原因の調査に着手。リンゴ栽培改善事業として
- 園地の整理
- 病害虫防除
- 地力の増進
の三大事業を実施し、従来の粗放な技術から労働集約技術への転換を指導した[2][5]。これにより青森県のリンゴ産業の危機を救い「リンゴの恩人」と称えられた[7]。またこれが日本のリンゴ栽培技術成立となる[5]。1931年の著書『実験リンゴの研究』は日本最初のリンゴ技術体系を発表した不朽の名著とされる[5]。さまざまの新しい試みを実践し1923年、アメリカからゴールデンデリシャスの穂を導入、これからふじやつがるなどの品種が生まれた[1]。
1927年6月に北海道帝国大学の助教授に就任。1950年から1954年まで北海道大学学長。退官後。弘前大学教授を務め、同大に農学部(現農学生命科学部)を創設した[5][7]。1956年リンゴの研究と指導により紫綬褒章受章。
1936年 北海道大学より農学博士。論文の題は「リンゴ実腐病ノ研究」[8]。
その他、サクランボの品種「佐藤錦」育ての親・岡田東作が種苗業を営むきっかけとなったのは、島の勧めによるものという[9]。
1964年死去。墓所は花巻市瑞興寺。
親族
[編集]妻の浦子は、4代目瀬川弥右衛門の妹であった[10][11]。
脚注
[編集]- ^ a b 東北農政局/地域の歴史
- ^ a b あー城下町弘前「島善鄰とリンゴ顕彰碑」 by 陸奥新報
- ^ 北大ものがたり - 北海道大学
- ^ 偉人たちを訪ねて | 社団法人花巻観光協会公式サイト 五感で楽しむ
- ^ a b c d e f 『青森県百科事典』東奥日報社、1981年、413頁
- ^ 青森りんごの歴史:大正 - 青森県庁ホームページ
- ^ a b 弘前大学農学生命科学部ブログ : 「島善鄰先生 顕彰碑」
- ^ 博士論文書誌データベース
- ^ 苗木の天香園-ご挨拶
- ^ 阿部彌之「農民が明るく楽しくと実践した花巻の2人、島善鄰・宮沢賢治」『宮沢賢治記念館通信 第111号 (PDF) 』2014年8月27日、pp.2 - 3
- ^ 米地文夫「銀河鉄道の「燈台守」ヘラクレス仮説からみた宮沢賢治の重層的世界」『総合政策』第11巻第2号、岩手県立大学総合政策学会、2010年5月1日、109-125頁。該当記述は119-120頁にある。
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- デジタル版 日本人名大辞典+Plus『島善鄰』 - コトバンク
- 第46回:島善鄰(しまよしちか) |盛岡市
- あー城下町弘前「島善鄰とリンゴ顕彰碑」 by 陸奥新報
- 平成15年度卒業式告示-弘前大学