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岸清一

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
岸 清一
きし せいいち
岸清一
生年月日 慶応3年7月4日
1867年8月3日
出生地 出雲国松江雑賀町
没年月日 (1933-10-29) 1933年10月29日(66歳没)
出身校 東京帝国大学法科大学英法科

在任期間 1932年3月15日 - 1933年10月29日
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岸 清一(きし せいいち、慶応3年7月4日1867年8月3日) - 1933年昭和8年)10月29日)は、日本弁護士政治家国際オリンピック委員会(IOC)委員。日本の体育スポーツ界発展のため尽力し、“近代スポーツの父”として慕われた。法学博士

生涯

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慶応3年7月4日1867年8月3日)、松江雑賀町(現在の島根県松江市雑賀町)に松江藩の下級武士・岸伴平の次男として生まれる。小学校時代の同級生に若槻禮次郎(第25代・第28代内閣総理大臣)がいる。岸と若槻は血のつながりはないが、近い親類だった[注釈 1][1]

松江雑賀小学校、島根県第一中学校(現在の島根県立松江北高等学校)、大学予備門を経て東京帝国大学法科大学英法科に進学。

1889年(明治22年)7月に東京帝大を卒業後、代言人免許を受け、岸法律事務所を東京の京橋に設置。1893年(明治26年)に制度改正により弁護士となる。

法律の調査・視察の為に数回の渡欧後、1910年(明治43年)10月に法学博士となった。1915年(大正4年)、東京弁護士会会長に就任。1927年(昭和2年)には第一東京弁護士会会長に就任するなど法曹界の重鎮であり、特に民事訴訟法の権威であった。

1932年(昭和7年)3月15日には勅選の貴族院議員となり[2]、死去まで務めた。

1933年(昭和8年)10月29日、病気のため死去。66歳没。

日本スポーツ界の功労者

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岸記念体育会館
日本スポーツ協会にある「岸清一先生」の像(2019年6月25日撮影)

岸はまた、日本スポーツ界発展に尽くした人物として知られる。岸は東京帝国大学在学中には漕艇で活躍した。

1911年(明治44年)に大日本体育協会(日本体育協会)が嘉納治五郎によって設立された際には維持員として参画し、1916年(大正5年)には副会長に就任。1921年(大正10年)3月に第2代会長に就任した。

1920年(大正9年)6月には日本漕艇協会(日本ローイング協会)初代会長に就任した(1921年(大正10年)6月まで、以降は顧問となる)。

1924年(大正13年)6月 国際オリンピック委員会(IOC)委員に就任し、死去するまで務めた。また野津謙専務理事(後に日本サッカー協会(JFA)会長)と共に大日本蹴球協会(のちのJFA)の国際サッカー連盟(FIFA)加盟(1929年)にも尽力した。

1932年(昭和7年)に開催されたロサンゼルスオリンピックにはIOC委員として参加している。

1924年(大正13年)3月に紺綬褒章を受章した。岸の故郷である松江市の島根県庁には岸の銅像があり、1964年に除幕式が行われた際には当時のIOC会長であったアベリー・ブランデージが自ら出席し、『東京オリンピックの開催は岸の偉業である』と讃辞を述べ、岸の功績を讃えた[3]

岸の死後に遺言により100万円の寄付がなされ、1940年(昭和15年)にお茶の水[注釈 2]岸記念体育会館が建設され、1964年(昭和39年)の東京オリンピック開催を機に同年7月に渋谷の代々木に移転された。2018年平成30年)11月8日、日本スポーツ協会理事会で岸記念体育会館を新国立競技場の隣接地に移転し「JAPAN SPORT OLYMPIC SQUARE」と名称を改めることとなり、館内に「岸清一メモリアルルーム」が設けられることが決定した[4]

2019年(平成31年)4月6-7日、岸清一の胸像が同月30日に竣工した「JAPAN SPORT OLYMPIC SQUARE」の前に岸記念体育会館から移設された[5]

岸の故郷である松江市では岸の名を冠した『岸清一賞 国際文化観光都市 まつえレディースハーフマラソン』大会が毎年3月に開催され[6]、毎年7月下旬には『岸清一記念 松江市民レガッタ』大会が開催されている[7]。また岸が漕艇選手出身だったということで松江市に2019年3月、『岸清一記念艇庫』が建てられオープンした[8]

関連作品

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脚注

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注釈

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  1. ^ 岸の母と若槻の継母が姉妹、また岸の姉が若槻の異父兄の妻である。
  2. ^ 現在のJR御茶ノ水駅近く聖橋の向かいにあり、2007年まで日立製作所本社があった。

出典

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  1. ^ 若槻礼次郎自伝 古風庵回顧録 明治、大正、昭和政界秘史』 3-21頁
  2. ^ 『官報』第1561号、昭和7年3月16日。
  3. ^ 出典:1998年2月26日朝刊 朝日新聞
  4. ^ “移転後の名称決まる=競技団体入居の岸記念体育会館”. 時事通信. (2018年11月8日). https://web.archive.org/web/20181119091903/https://www.jiji.com/jc/pyeongchang2018?s=news&k=2018110801163 2018年11月18日閲覧。 
  5. ^ 岸記念体育会館 岸清一像の清掃を実施』(プレスリリース)日本スポーツ協会、2019年4月5日https://www.japan-sports.or.jp/news/tabid92.html?itemid=39462019年6月28日閲覧 
  6. ^ 第40回記念 岸清一賞 国際文化観光都市 まつえレディースハーフマラソン』(PDF)(プレスリリース)国際文化観光都市 まつえレディースハーフマラソン実行委員会事務局http://www.matsue-ladies-half.com/outline/img/outline.pdf2019年8月31日閲覧 
  7. ^ 岸清一記念 松江市民レガッタ” (HTML). 松江市民レガッタ実行委員会. 2019年8月31日閲覧。
  8. ^ "岸清一の故郷、松江に艇庫". カナロコ. 神奈川新聞社. 30 March 2018. 2018年8月31日閲覧

外部リンク

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先代
嘉納治五郎
日本体育協会会長
第2代:1921年 - 1933年
次代
大島又彦