岩瀬弥助
岩瀬 弥助(いわせ やすけ、旧字:岩瀨彌助。1867年(慶応3年)10月6日[1] - 1930年(昭和5年)1月3日)は、日本の実業家。幼名は吉太郎[1]。西尾鉄道初代社長を務めたほか、私財を投じて岩瀬文庫をも創設した。
略歴
[編集]三河国西尾城下の須田町(現・愛知県西尾市)にて、肥料商を営む岩瀬弥蔵の長男として生まれる[1]。小学校を卒業すると家業を継いだ。1887年(明治20年)20歳の時に本家の猪代治が亡くなったため、本家の山本屋へ養子に入る[1]。その際、猪代治の長女と結婚し[1]、祖父の名を襲名して四代目弥助を名乗る[1]。同年、旧西尾藩士・矢島貞廉(やじま ていれん)が中心となって結成した、法律、経済、社会問題について学ぶ「談話会」に入会し幹事となる。株式投資に関心を持ち積極的な投資活動を行うと、やがて西三河でも屈指の資産家になっていった。政治にも意欲を示し、1898年(明治31年)には西尾町長に就任したが、在職わずか1年4か月余りで辞任した[1]。1909年(明治42年)西三軌道株式会社初代取締役社長に就任[2]、1911年(明治44年)には西尾鉄道社長として西尾・岡崎間を結ぶ軽便鉄道の開通を実現させた[2]。
また、社会事業家としても足跡を残し、1908年(明治41年)5月6日には社会に利益を還元し地域文化の向上に役立たせるべく、私立(私設)図書館として岩瀬文庫を開館させた[1]ほか[注釈 1]、学校建設にも大きな貢献をし、西尾高等女学校と西尾中学校(2校とも現在の愛知県立西尾高等学校)、蚕糸学校(現在の愛知県立鶴城丘高等学校)、西尾小学校など、用地、資金面で多大な援助をした。日本赤十字社や公死傷者や貧民救済のためにも多額の寄付をした。
岩瀬文庫
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 当時の蔵書数は愛知県内一を誇り、2万7千冊を越えていたといわれる。