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岩永汪

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
岩永 汪
生誕 1889年8月20日
日本の旗 日本 福岡県
死没 (1960-01-19) 1960年1月19日(70歳没)
所属組織  大日本帝国陸軍
軍歴 1912年 - 1945年
最終階級 陸軍中将
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岩永 汪(いわなが おう、1889年明治22年〉8月20日[1] - 1960年昭和35年〉1月19日[1])は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将

経歴

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福岡県出身[1]1912年(明治45年)陸軍士官学校第24期卒業、陸軍歩兵少尉に任官[1][2]。のち1920年大正9年)陸軍大学校に入校し、1923年(大正12年)同校第35期卒業[1]

独立守備歩兵第6大隊長、留守第10師団参謀長を経て、1937年(昭和12年)陸軍歩兵大佐となり、さらに1938年(昭和13年)第110師団参謀長(北支那方面軍)に任官[3][4][5]支那事変に出征し、京漢線の警備に当たった[1]。翌年の1939年(昭和14年)陸軍少将・第7独立守備隊長を経て、1941年(昭和16年)第34歩兵団長(第11軍第34師団)として南昌に駐屯[1]

大東亜戦争が開戦すると1942年(昭和17年)独立混成第9旅団長(第1軍)に転じ、直隷省中心部の警備に当たり、長沙作戦の増援に出る[1]1943年(昭和18年)陸軍中将・第116師団長(第20軍)に任官し、常徳攻略の主力兵団として奮戦[1]。また、湘桂作戦でも長沙衡陽を陥落させた[1]。 その後は本土決戦に備え1945年(昭和20年)3月に西部軍管区司令部附となり、さらに翌月の4月には第155師団長(第2総軍第15方面軍第44軍)に任官[1]高知県香美郡にて終戦を迎えた[1]

1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[6]

栄典

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位階
勲章等

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l 『日本陸軍将官辞典』111頁。
  2. ^ 『官報』第122号、大正元年12月25日。
  3. ^ 『官報』第2276号、昭和9年8月2日。
  4. ^ 『官報』第3175号、昭和12年8月3日。
  5. ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』315頁。
  6. ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」36頁。
  7. ^ 『官報』第167号「叙任及辞令」1913年2月21日。
  8. ^ 『官報』第1978号「叙任及辞令」昭和8年8月4日。
  9. ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。

参考文献

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  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。